マハラジャ成功の一因に「本格的な料理のラインナップ」が挙げられる。 ノヴァ21グループ代表菅野諒氏は大いなる美食家であり世界中の有名レストランを自ら視察し、オリジナルメニューの開発を積極的に推し進めた。 そんな菅野氏を料理人の立場からサポートすると同時に、自らも多くのオリジナルメニューを開発し「食」というカテゴリーから多くのお客様を魅了してきた醍醐重一氏にお話しを伺った。 |
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マハラジャ・ウェブサイト(以下Mと省略): 本日は、お忙しいところ、お時間を頂きましてありがとうございます。マハラジャ・ウェブサイトでは、マハラジャには欠かせなかった「食」の分野で大活躍された醍醐さんに当時のエピソード等をお聞きしたいと思っております。本日はどうぞ宜しくお願いします。 醍醐重一氏(以下Dと省略): はい。こちらこそ、どうぞ宜しくネ。 M: 早速ですが、まず最初に入店された、ノヴァ21グループのお店は何処だったのですか。 D: 最初は「キングスタン・クラブ」だよ。キングスタンは飲む方のクラブだったんだよ。六本木の「最後の20セント」っていうお店の前にあったんだけどね。 M: キングスタン・クラブには、どのくらい在籍されたのですか。 D: あそこは一年位だったね。その次は「泥棒貴族」と「緑の館」だね。その2店は同じビルにあったんだけど、2つの調理場を兼任していたんだよ。その頃に、大阪の「ジジック」が大当たりしていてね・・・ M: その時はもうすでにジジックがオープンしてたんですか? D: そう、オープンしてたんだよ!そのジジックでは「お寿司」と「おでん」しかやってなかったからねー。菅野代表が俺に「マハラジャではもっと若い人が食べる様な物をやれ!」と言ったんだよ。 M: それで指導という立場で「ジジック」と「大阪マハラジャ」に関わられたと・・・ D: そう、2店ともお手伝いしたよ。当時、大阪は凄い勢いで伸びていたからね。1年程で5軒くらいオープンしたんだよ。俺もディスコやパブだけじゃなく、「トムトムクラブ」っていうワインバーや「シルバースプーン」っていうレストラン等にも関わっていたよ。 M: 「シルバースプーン」っていうレストランは知りませんでした。どんなお店だったんですか。 D: 都ファッションビルにあったんだけど、セルフサービスなんだ。六本木にあった「ジャック&ベティ」みたいな店だよ。 M: なるほど。「大阪マハラジャウェスト」と同じビルですね。「アマゾンクラブ」もありましたね。 D: そうそう!アマゾンクラブの下の階だよ。 M: そうでしたか。マハラジャ以外にも多く関わられたのですね。後に「マハラジャ」「キング&クイーン」のオープニング指導の為、全国をまわられる訳ですが、やはり「フード・メニューの統一化」という方針に基づいたものだったんでしょうか。 D: うん。あのね・・・当時ディスコの調理場って、上にしっかりした人がいなくて、みんなアルバイトだったんだよ。だから凄く足腰の弱い調理場でね。「料理人」ってディスコでは働きたがらないし、まして夜中の仕事は嫌がる。昨日居た人が、今日は居ないってことも珍しくなかった。まぁ、俺自身も「ディスコは料理じゃない。『サービス』だ」って思っているんだけどね。 M: なるほど。ではオープニングは醍醐さんが指導して、また次の店へという感じだったのですか? D: そう。忘れもしないけど・・・「札幌マハラジャ」に行った時「東京マハラジャ」が建設中で、もう既に話があって帰京しなけりゃならなかったんだけど、忙しくて帰れる状況じゃなかったんだ。俺の頭の中は、札幌と東京のマハラジャの事で、いっぱいいっぱいだった。そんな状況で、東京マハラジャのオープンを一週間後に控え、札幌を後にしたんだよ。本当はもっと札幌マハラジャに居てやりたかったんだよ。ホント忙しかったからね。 M: そうでしたか。醍醐さんの東京マハラジャに対する気持ちについてお聞かせください。 D: 俺の中ではさ、あんな麻布の当時何も無かった「へんぴ」な所で「流行るのかなぁ」って気持ちは正直あったけど、菅野代表は凄く力を入れていたから、その気持ちに応えたかったね。 M: そんな東京マハラジャがオープンして、どうでしたか? D: あのね、オープンして3日目位にね「殺されちゃう!」と言って2人位辞めたんだよ。そのくらい忙しくって、従業員は本当に大変だったよ。マハラジャって凄くて、他のディスコが潰れるくらいだったでしょ。 M: 「殺されちゃう!」というのは物騒だけど、すばらしい表現ですね。 D: そうそう、東京マハラジャのテーマって何か知ってる? M: 知りませんね。どんなテーマだったのですか? D: 東京マハラジャはねー、「エキゾチック・ジャパン」だったんだよ! M: 郷ひろみの・・・ですか? D: そう!あの当時だからね。そのテーマは菅野代表のコーディネーターの方が考えたもので、レストランコーナーのショーケースは、京都のイメージで玉砂利風に碁石を使い、食器は伊万里で日本の伝統でしょ。そんなテーマの中で、お寿司があり、俺は日本風にアレンジした「アンディパスト」(いわゆるイタリアン)をやりたかった!だからサラダも普通のサラダじゃなくて、日本の素材を使ってイタリアンサラダを作ろうという事になった。イタリアンサラダって、サラミとチーズとオリーブ油でしょ。それを日本風に、チーズをうなぎの蒲焼、サラミをチクワの千切り、ソースは和風ドレッシング(スーパードレッシング)にしたんだよ。このサラダは結構出たね。 M: おいしそうなサラダですね。そういえばノヴァ21グループのオリジナル「しゃぶ禅スーパードレッシング」ありましたね!あれは確か、ケンコーマヨネーズ社製だったんですよね。 D: そうそう。作らしたんだよ!年間で一万リットル位だったかな・・・売れちゃって売れちゃって、ケンコーマヨネーズで当時一番のヒット商品だったんだよ。ところがね、あれはセパレートだから置いておくとすぐ分離しちゃうんだよ。それを知らない素人がやるから、振らないでそのままかけて油ばっかりになっちゃうんだよ。それが面倒だと言って油だけ捨てている店もあったよ。あの油がうまいんだよ! M: あのドレッシングの中の粒々は、何だったのですか? D: あれはセロリだよ。あれが隠し味で、またうまいんだよ。 M: そうだったんですか。それでは、その「しゃぶ禅スーパードレッシング」を使った「オーシャンキング・サラダ」はどうやって、できたんですか? D: あれは菅野代表の奥さん!菅野代表の奥さんが家庭で作ってたみたいで、菅野代表が「うまいなー」って思い提案されたんだよ。 M: なるほど!菅野代表宅の味って訳ですね。マハラジャ・オリジナルメニューについて、もう少しお聞きしたいのですが・・・「牛乳寒のレモンシロップ」は、いつ頃どの様に考案されたものなのですか? D: あれは、大阪マハラジャのオープンの頃だなー。菅野代表のコーディネーターの方に、レシピ的なモノは教えて頂き作ったんだよ。 M: あの牛乳寒の甘さと、レモンシロップのが絶妙でしたね!個人的にも、好きなメニューの1つでした。それから「白玉クリームぜんざい」はどうやって作られたのですか? D: あれはね、菅野代表のコーディネートで「やったらどう?」って言われて作ったんだけどね。白玉って固まっちゃうんだよ!作り置きしておくと、もう次の日にダメになってたからね。今みたいに冷凍の白玉を使ったら良かったんだけど、当時そこまで頭回らなかったからなー。そんなんで、あまり出ないし、やめたよね。 M: ところで一番苦労された、オリジナルメニューは何だったんですか? D: 「プディング」だね。アレは凄く大変だったんだからー! M: どうぞお聞かせください。 D: 菅野代表がイタリアに出張された時にプリンを食べて、そのプリンがおいしかったらしいんだよね。元々、日本のプリンは「プッチン・プリン」みたいにゼラチンで固めたプリン・プリンとした、やわらかいイメージでしょ。イタリアのプリンは、卵で固めたという感じの固めのプリンなんだよね。それを菅野代表が感激して、日本に帰ってこられて「イタリアに行って、食べて来い」って言うのかと思ったら、そういうものを作れという訳だよ・・・ M: 味がわかりませんね。 D: わからない!わからないんだから!!「これ位の大きさで、うまいんだよ!」ってしか言われないんだよ!イタリアに行って食べてきて「まだわからないのか、バカ者!」って言われるなら仕方ないけど、「うまいんだよ!」としか言ってくれないからね。 M: それで、どうやって作り始められたのですか? D: 最初はね、牛乳を沸かして卵を入れてといで固まらない程度に裏ごしして、カラメルを砂糖で作って、型に流して冷蔵庫で冷やすっていうプリンだったんだよ。でもね、卵臭くなったりして菅野代表にその度に「70点!」「65点!」って言われるんだけど、わからないんだよ。イタリアに行きたいけど行けないし、「わからないよー」って頭を抱えてた。俺としては、85点もらえばいいと思っていた。90点はいらないってね。 同時に菅野代表に言われていたプリンを、全国の店舗が同じ味を出せるように教えなければならないという難題も抱えていたよ・・・あのさカラメルって鍋に砂糖を入れて水を点し火にかけ、いわゆるカラメル色にするんだけど、これが難しくって!!砂糖って溶岩と同じですぐ黒くなって苦味が出るし、数秒遅いと焦げてしまうし、カラメルの中に少し水入れする時、溶岩みたいにブワァー!と噴いてしまうから、火傷の心配もある。こんな難しい事をアルバイトに教えられないと思ったよ。 それでさ「あれ?ケーキ屋さんってどうやってプリンを作っているんだろう?」と思って、俺の友達に聞いてみたんだよ。そしたら「『プリンの素』を使ってるんですよ」って言う訳だよ。とりあえずケーキ屋さんに置いてある様なプリンを試食してみようと思って、青山の紀ノ国屋で買ってきたプリンを菅野代表に食べてもらったら「そう。こんな感じだった!」って言うんだよね。 M: それが、ヒントになったと・・・ D: それで形になって、店に出せる様になったんだよ。あれはね・・・「京都ラジャコート」のオープニングに菅野代表が来られた時。俺はその「プリンの素」を(中略)して、カラメルは「カラメル・タブレット」を溶かして使い、プリンの型は大阪道具屋筋で特注したものを取り寄せて、「プディング」を作ったんだ。客席でプディングを試食している菅野代表を、厨房から窺っていると「グッド!!」っていうサインを出してくれたんだよ!「やったー」って思ったね。 ちょうど、スペースシャトルが爆発した頃だよ・・・空中分解した時!あの時代だよ。そう10何年前! M: 凄いですね。正に「チャレンジャー」という訳ですね。 D: そう。俺もチャレンジャーしちゃったよ!プリンって素人でも、できるじゃない。でも、俺の指導で全国「味の統一化」ができたって事を幸せに思っているよ。今でもしっかりとね。 M: そんな苦労の甲斐あって「プディング」は大ヒットしましたね! D: したねー!だって流行ってる店で一日100個位作っていたからね。100個っていったら5回程焼くんだよ。1回で20数個しか作れず、焼くのが大変だから、結構「売り切れ」とかあったみたいだけど、「東京マハラジャ」「エデンロック」では絶対「売り切れ」は無かったよ。プディングが出た数で集客数もだいたい把握できたよ。200個出たら、およそ400名のお客様が来られたってわかったよ。2・3人に1人は食べていたからね。ホントに売れたよね! M: そんなに出ていたのですね。次に「トロピカルフルーツ・アイス」について、お話くださいませんか? D: フロリダに「アース・クイック」って店があるんだけど、名前の通り「地震がくると崩れ落ちてしまう位に・・・」というイメージで、アイスクリームの上にフルーツを崩れ落ちる程、のせてたんだよ。それで俺は、バナナやキウイをのせたんだよ。昔イチゴは高かったし、シーズン以外はおいしくなかったしね。 M: トロピカルフルーツ・アイスは、見た目にもインパクトがありましたね。ところでインパクトがあると言えば「はちみつトースト」に勝るものはない訳ですが、今でも大人気を誇る「はちみつトースト」について、お話ください。 D: あれはねー、「川崎キング&クイーン」ができる前にやろうかなぁって思ってたんだよね。でもたかがトーストでしょ。喫茶店の厚めのトーストを見て思いついたものなんだけど、あれをショーケースに入れるのが恥ずかしいと思ったんだよ。あれは料理人が作るものじゃないし、当たるかどうかもわからない・・・そんな事を半年間位考えたんだ。麻布(東京マハラジャ)の寿司コーナーあるじゃない?あそこを行ったり来たりして「やめようかな・・・だけどやったら当たるかもなぁ」なんて凄く悩んだ記憶があるよ。そんな事を思いつつ、とりあえず川崎キングでやっちゃおうって決めたんだよ。 M: では、「はちみつトースト」のデビューは川崎キング&クイーンだったんですか? D: そうそう!ジョークでやったら当たったねー!川崎キング、初日の一時間で完売したよ。 M: どの位用意されたのですか? D: えっとねー、出ると思わなかったから、20人前位だったかな・・・だから3斤パンが、6本か7本だったよなー。あれは3斤パンを3等分して作ったんだよ。 M: 真ん中も使う訳ですね。 D: そう!真ん中が一番うまいんだよ!これが出る前の売れ筋商品って、ドリア、サラダ、お寿司だったんだけど、「はちみつトースト」を出してからは、女のコが7・8人来たと思ったら全員、「はちみつトースト」だったからね! M: その当時は、川崎キング&クイーンにしか、出されていなかったのですか。 D: その時は現場が忙しくて会議に出れず、この「はちみつトースト」を発表できなかったんだよ。だけど後に、仙台の調理の人間が店に来て「教えて欲しい」って言うんだよ。教えてくれって言われても、パンを焼くだけだからね。だけど、とりあえず一通り教えてあげたら、仙台でも大当たりして、それからあっという間に全国にひろがったんだよ。 M: 後に、ビストロ・スマップでも紹介されましたね。 D: うん。大好評で、ビストロ・スマップのレシピブックの「年間ベスト5」にも選ばれたんだよ。あと「はちみつトースト」の考案者ということで「ウォッチャー」(※フジテレビの番組)のスタジオにゲストで呼んでもらったよ! M: バリエーションの一つとして、アイスクリームのトッピングもありましたが・・・ D: あれは成田社長がVIPルームで、ハーゲンダッツのアイスクリームをのせて出したらウケたんだよ!他に、「イカせんべい」や「牛せん」に、一味唐辛子マヨネーズを付けたのも成田社長なんだよ。 M: なるほど、そういう訳だったんですか。ところでお寿司のメニューで「マーちゃん巻き」ってありましたが、この「マーちゃん」って成田勝社長からの由来なのですか? D: あれはね・・・平尾昌晃先生の「マーちゃん」なんだよ。俺にあの手巻きを提案したのが平尾先生だったから。「レタスときゅうりとエビに、マヨネーズを入れて巻くとおいしいよ」ってね。だけどね、成田社長も「マーちゃん」だし、マハラジャだから「マーちゃん」にしたのも事実だけどね。そうそう、それに対抗して、カニを巻いて「やす巻き」って作ったんだよ。成田社長の弟さんが「恭教(やすのり)」さんだからね。これは、東京マハラジャだけだよ。 M: そうだったんですか。そういえば、アボガドを巻いたのもありましたね。 D: あれは「カリフォルニア巻き」だよ。 M: そうそう「カリフォルニア巻き」でした。当時、お寿司屋さんには無かったですよね。 D: そうだね。寿司ネタにマヨネーズなんて無かったしね。あれは邪道だったんだよ。ましてサラダを巻くなんてさ・・・でも当時それで当たったからねー。日本全国、どこの寿司屋もやっちゃったよ。今なんてコンビニにも置いてあるでしょ。 M: そうですよね。「サラダ巻き」をひろめたのは、マハラジャの功績と言っても過言ではないと・・・ D: そうだろうな・・・マハラジャっていうメディアのお陰だろうね。今となっては当たり前のモノなんだけどね。だからさ、食文化って「絶対、これだ!」ってモノは無いんだよ。 M: なるほど・・・では次に、食器類についてお聞きしたいと思います。あのデザート類に使用していたガラスの器、途中からプラスチックになりましたが、あれはどうしてなんですか? D: マハラジャって、洗浄機で食器を洗っている店が多かったんだけど、あのガラス器は洗浄機の中でよく割れたんだよ。器は1個1000円位して、飲食チケット2枚程のデザートを売る度に、割れたら合わないでしょ。プラスチックにしないと会社に負担が掛かるからね。 M: そうですね。でも、プラスチックだと白く曇ってしまいましたよね? D: あれね、洗浄機って80度ぐらいのお湯だから樹脂が曇っちゃうんだよ。 M: あのプラスチックの方も越前屋の製品ですか? D: そう。ガラスのもプラスチックも越前屋だよ。全国で統一されていた、象の絵皿やゼブラ柄の皿も全て越前屋だよ。 M: そういえば、キング&クイーンのお皿で青色を出すのが大変だったとか? D: あー、大変だったって聞いてるよ!あのお皿は、「ノリタケ」を参考にして、色は「大倉陶園」って言う窯元のオリジナルの色なんだよ。それを菅野代表が気に入って越前屋に作らせたんだ。 M: マハラジャもキング&クイーンも、単にオリジナル・メニューの開発だけでは無く、食器類にもこだわっていたという訳ですね。 D: そう食器もオリジナルだよ!この食器を揃えるのに全国で1千万円以上かかったんだけど、それは当時だからこそできた事だろうな。 M: ちょっと話はさかのぼりますが・・・初期店ではお皿は「伊万里焼」を使用されていましたよね? D: そうそう!佐賀の伊万里で作ってたんだよ。 M: 本当に伊万里なんですか? D: 伊万里だよ!俺、作っている所に行って来たからね。それにね、菅野代表が直接足を運んで自分自身の目で確かめて作らせていたんだからね。 M: そうだったのですか。菅野代表の、強いこだわりの品だったんですね。 では次に・・・醍醐さんは、新しくオープンする多くの店舗の厨房へ出向されご指導されていましたが、一店舗で何日間くらい指導され、帰られるのですか? D: 俺は単独で一週間前に入るね。ヘルプだったら3日前だね。仕入れがあるからさ。 M: 仕入れも全部されていたのですか? D: そうだよ。仕入れの段階で「そういう物はありません」って言われてもオープンしちゃう訳だしね。まして地方は宅急便で急いだって3〜4日かかる訳でしょ。経験上、俺はそういう事で嫌な思いしてるからさ、一週間前に行って必ず3日前には注文したよね。だから業者でもマハラジャって店を、どういう店なんだか理解していない業者はダメだって事だね。 M: 厨房設備の設計にも、関わっておられたんですか? D: 全部やらせてもらったよ。「この調理場には、こういう感じで配置して」ってみんなやったね。そうそう「マハラジャ・ハワイ」には、二ヵ月半行ったよ。調理場図面も俺が引いたからね。アメリカ人って「お寿司」とか「たこ焼き」「焼きそば」は作れないから俺が教えなきゃならない訳だよ。 M: やはり日本のマハラジャとは、システムが全然違うのでしょうか? D: そうだね・・・アメリカ人はテーブルで食事するでしょ。テーブル自体にスタッフがいるからチケットじゃなくて現金なんだ。その中から何%ってチップを貰うんだろうね。アメリカの従業員はチップで生活してるのを知らなかったから、俺さぁ、お客さんがチップくれるのを「いらない」って断った事あってね、上の人から呼ばれて注意を受けたのを覚えてるよ。 他にね、アメリカ人はマグロのわさびの強いのが好きだね。わさびを別に大さじ一杯くらい付けて食べるんだよ!凄いよアメリカ人は! そうだ!「たこ焼き」を出していたんだけど、アメリカ人は食べないんだよ。なぜだと思う? M: えーと?「たこ」って恐いイメージだからですか? D: あのね、「たこ焼き」焼いてさ、その上にかつお節をかけるよね!熱でかつお節が踊るでしょ。あれが「生きてる!」「恐い!」って食べないんだよ!まして、向こうでは「たこ」は人間を襲う魔物のイメージだからね。「たこ焼き」って名前で出してたけど、「オクトパス」って英語で言っちゃったら食べないに決まってるしね!まぁー、あまり出なかったな。 M: そうなんですか。日本とアメリカでは、色々な違いが出てくるのですね。他に思い出深いエピソードがあれば、お聞かせ下さい。 D: 他ね〜、バブルの頃は皆「クレイジー」だったからね。東京マハラジャのオープンしたての頃なんて、1日4本位のパーティが入っててね。一発目10時からで、次に12時、14時、16時、その後通常営業して終わってさ、上に寮があって調理場の人間5・6人で住んでいてね。寝かせなきゃいけないし、飲ませてやらなくちゃだし、暖かい部屋も確保してやらなきゃならないのに、布団無くってさ。それで白衣2枚着て寝たんだよ。大変だったなぁ・・・ M: 本当に忙しくて大変だったという事がわかりました。全国のお店を回られて、東京マハラジャが一番凄かったんですか? D: 凄かったねー。忙しさが止まらないんだから!台風来たって100万円売り上げるんだから!台風が直撃しなきゃ300万円。それもお客様を断って300万円だからね。本当に凄い店だったよ。 M: 本当に凄かったのですね。それでは最後に、醍醐さんにとってマハラジャとは? D: 100年に一度のお店だね。俺はその商売に関わっていた事を誇りに思っているよ。マハラジャは全国制覇したからね。関わった人達は、きっと俺と同じ気持ちだと思うよ。俺は料理場の責任者として「1円たりとも赤字を出さない」「菅野代表の代理であるという事」をいつも忘れずに仕事をさせてもらっていたよ。 そうだなぁ、「俺が俺でいられた場所」と言っても過言ではないよ。 M: マハラジャに関わった方々の苦労、そしてその中で感じられた「喜び」と「誇り」が充分に伝わってきました。たくさんの方々の努力が店を大きく成長させていったのですね。長々とお時間を頂き、ありがとうございました。今後とも宜しくご指導ください。 D: 喜んで!皆も頑張って下さいな。 M: はい!ありがとうございます。 ('03年2月10日 新大久保カーサにて) |
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