MAHARAJA WEB SITE - BACK

MAHARAJA

NOVA INTERNATIONAL Co., Ltd.
Executive Director

K. TAMAKI

玉 木 邦 甫

1936年(昭和11年)生まれ 岡山県出身 血液AB型

 法政大学卒業。ノヴァ・インターナショナル株式会社常務取締役、そして店舗開発部責任者としてノヴァ21グループの店舗展開を任される。
 後に「ヴェルファーレ」「アース」顧問、「トゥーフェイス」「クラブ キャメロット」取締役社長を経て、現在は株式会社 SPIRIコミュニケーションズ 代表取締役として「スプリット サルサ コパカバーナ」「ホウェイ ラウンジバー シーシャ」を展開。
 また「六本木キング&クイーン」顧問、そしてこの春4月9日グランドオープンの「クラブ ディアナ」代表として、クラブシーンの第一線で活躍中。
(このプロフィールとインタビューは掲載当時<'10年3月>のものです)

独占インタビュー

マハラジャ・ウェブサイト(以下Mと省略): 本日は、お忙しいところお時間を頂きましてありがとうございます。マハラジャ・ウェブサイトでは今回、ノヴァ・インターナショナル(株)の常務取締役でした玉木さんの特集を組む事にしました。どうぞ宜しくお願いします。

玉木邦甫氏(以下Tと省略): はい。こちらこそ宜しくね。

M: 早速ですが、どのような経緯でノヴァ21グループに入社されたのですか?

T: 私の幼なじみが「六本木 最後の20セント」の常連客で、菅野代表から「誰か良い人いないか?」と言う話しがあり、私が紹介され’74年に日本レヂャー開発鰍ヨ入社した。その頃は東京に「深海魚」「最後の20セント」「泥棒貴族」「緑の館」「黒いチューリップ」「メビウス」「アル・カポネ」「ローズガーデン」「シーファリ」「サハラ」「アップルハウス」と、日本アミューズメント鰍フ店舗を含めて11店舗を展開していた。

M: それでは玉木さんは最初、どの店舗に配属されたのですか?

T: 実は夜の飲食店は未経験だったので、最初は事務所勤務になると思っていた。事務所には4人しかいなかったし・・・もちろん部署分けなんか無かった。その頃の事務所は六本木 瀬里奈の先にあった千成ビルと言うマンションにあった。今はもうビルが無いけどね。

M: それで最初から事務所勤務になったのですね。

T: いや忘れもしない 7月1日のミーティングで菅野代表から、いきなり「最後の20セントのサブマネージャーから勤務しろ!」と言われた。

M: ・・・

T: 「最後の20セント」は、事務所があったビルの1Fにあった。そこに何の経験も無い私に「サブマネージャーからやれ!」と・・・本当に驚いたね。マハラジャで例えるなら未経験の新人が、黒服からやるのと同じかな。

M: それは凄い話しですね。それで役職からのスタートですが、条件も良かったのですか?

T: 給料は18万円だったね。大卒銀行員の初任給が7万4千円だったから、当時としては良かったと思う。

M: その頃の「最後の20セント」は人気でしたか?

T: 絨毯バーで凄く流行っていたよ。月に3,000万以上の売上があったからね。社会人・OL中心で大人の社交場だった。その時は2バンドで「東京ロマンチカ」等、けっこう有名なバンドが入っていた。最初の頃は日本人のバンドが入っていて、それからギャラの関係でフィリピンバンドの時代になったね。またサントリー・オールド等の完全ボトルキープ制だった。しかしボトルばっかり増えるので、大和実業と同じく量り売りに変えて、仕入れの無駄を無くした。

M: そんな全盛期の「最後の20セント」で、未経験の玉木さんは大変苦労されたのでは?

T: そう何も知らなかったからね。しかし期待に応える為、がむしゃらに働いたよ。その時は菅野代表と同じく、立教大学出身の原さん(後に熊本マハラジャ社長)が店長だった。その原さんから、トラブルの対処法を教わった。

M: 「最後の20セント」でのサブマネージャー勤務は、しばらく続いたのですか?

T: それが今度は8月1日のミーティングでいきなりマネージャーになり、そして9月1日のミーティングでは店長になった。1ヶ月ごとに昇格と昇給したのは異例だったね。

M: それもまた凄い事ですね。ところでその頃の地方出店はあったのですか?

T: まだ無かったが、'74年9月に地方出店の第1号店である「仙台 最後の20セント」を出す事になった。そして菅野代表から「仙台はお前が行け!成功次第で今後の全国展開がお前にかかっている!」と言われてね。それで仙台には店長として、オープンから入る事になった。

M: つまり玉木さんはノヴァ21グループの長い歴史の中で、地方店最初の店長だった事になりますね。それで「仙台 最後の20セント」は成功したのですか?

T: 大成功だね。六本木と同じく掘りごたつで中華料理をメインにして、フィリピンバンドを2バンド入れた。約90坪のお店で月2,600万円の売上を出したよ。それでいつも店長会議で売上報告があるが、「六本木 最後の20セント」に次いで、2番目の売上を出していた。この成功でその後の地方展開が決定的になった。

M: なるほど、その後マハラジャ等の全国展開のきっかけを作ったのは、玉木さんの頑張りだったのですね。ところで「仙台 最後の20セント」で、苦労された事はありますか?

T: 仙台には4年2ヶ月勤務したが、その間に宮城沖地震(※’78年6月12日発生 M7.4)があった。それでお店はガラスにヒビが入るは、ボトルラックは倒れるは、電気・ガス・水道が止まって大変だった。もちろん電車も動かなくなり、東京から菅野代表を始め誰も応援に来れなかった。そこで街に出て「最後の20セント営業しています!」と、従業員一丸となって外販して、地震発生した当日から営業したね。電気が点かないからロウソクを点けてね。すると「こんな時でも営業しているなんて!」と、お客さんは逆に喜んでくれた。普通だったら閉めるだろうけど、従業員のやる気のおかげだったよ。

M: 「仙台 最後の20セント」の後は、どうされたのですか?

T: 以前から菅野代表から「総務部長の席を用意したから東京に帰って来い!」と言われていた。だけど売上がちょっと落ちた時でもあったので、「悪いまま帰るのは『凱旋』じゃない!」と思った私は、「売上を上げてから帰る」と断った。それで一生懸命に頑張って、月に2,600万円やったよ。再び調子が出てきたので、本当はもう少し仙台に残っていたかったが、菅野代表から「これで戻って来ないなら、お前にもうチャンスはない」と脅かされた(笑)。

M: それから本社勤務となる訳ですね。

T: そう。総務部が新たに設けられて、総務部長としてね。しかし部下が誰もいなく、しばらく一人でやる事になる。

M: その頃の総務部の仕事とは?

T: まず人事中心だった。しかしその頃は募集しても、なかなか人が集まらなく大変だった。そこで北海道から沖縄まで、いろんな高校を回って募集の案内をした。また自衛隊では退職や任期満了に合わせて、再就職活動支援を行う部署があって、そこから紹介して貰い各地の駐屯基地に募集の案内を行った。駐屯基地の講堂では、再就職希望者が100名ほど説明を聞きに集まる。それで各会社がPRする。自衛隊員だからキチッ!として、身動きせずに静かに聞いているのが気になっていたので、私の順番の時「すみませんが立ってください!それでは背伸びをしましょう!」と呼び掛けリラックスムードを創った。それが良かったみたいで、応募者は殺到したよ(笑)。それから縁があって「自衛隊友の会」を発足して、私が初代副会長になった。

M: 高校や自衛隊への募集案内は、玉木さんによるアイデアだったのですね。

T: そう。職安には行かずに集めた。会社を大きくする事や店舗展開するのも大事だが、人材確保はもっとも重要な事。その結果、優秀な人材が集まった。もちろん夜の仕事だから体に馴染まずに辞めた人もいるけど、「六本木 最後の20セント」に入った元自衛官は、バーテンダーとして国内大会の賞まで取った。その後は博多のホテルで、人気のバーテンダーになったそうだよ。それで私はそれらの成果を認められて、取締役総務部長になった。

M: 人材育成にも力を入れていたようですね。

T: うん。修養団の伊勢神宮の施設にて3泊4日の研修を行った。これはノヴァ21グループの幹部候補が必ず参加する。あえて寒い冬を選んで、夜中の2時頃から皆フンドシ姿になって「禊(みそぎ)」を受ける。また内宮を掃除すると言う名目で、一般では立ち入りできない神聖な場所も入れた。もちろん私も行ったけど、これをやらないと幹部社員にはなれなかった。その後マハラジャの社長や幹部クラスになった人は、皆やっていると思うよ。

M: それは厳しい研修ですね。

T: また社員教育の一環として、JALアカデミーから制服を着たベテランの客室乗務員を招いて、店長会議の後にマナー・言葉使い・服装等の講習を行った。その結果がディスコシーンでは革命的だったマハラジャでの丁寧な接客となる訳だ。またこの日本航空との関係で、機内誌にマハラジャやしゃぶ禅等、ノヴァ21グループの広告を出した。ちなみに私は全日空の客室乗務員と結婚したけどね(笑)。

M: なるほどナイトレジャー企業とはいえ、本格的な社員教育が行われていたのですね。それでは他にどんな仕事がありましたか?

T: 話しを戻しましょう。仙台出店が成功したのを皮切りに1年ごとに地方出店が始まった。「新潟 最後の20セント」は、且R富の川崎社長。そしてフランチャイズで長野県にも「上田 最後の20セント」を出店する事になる。ところがオープン日に国鉄のストライキになって、電車が動かなくなった。それでまたしても東京から菅野代表を始め誰も応援に来れなくなってね・・・私は現地に準備段階から入っていたが、店長の指導で数ヶ月いる事になり、上田市に一軒屋を借りてもらって、オープニング準備やその後の現場指導も行ったね。

M: それではディスコに力が入るのは、いつ頃からだったのですか?

T: ノヴァ21グループでは既に「メビウス」「アップルハウス」等のディスコはやっていたけど、’78年に公開された映画「サタデー・ナイト・フィーバー」の影響により、ディスコブームになる。「最後の20セント」でもお客さんがディスコのように踊りだしたりしてね。その時の店舗は猫も杓子もディスコ営業になった。それから本格的にディスコへの戦略になっていった。

M: なるほど、では具体的には?

T: 優秀社員の功労として、フィリピンに社員旅行を行う事になる。その時、私と菅野代表と豊島さん(後にクリエイティブマックス常務)とで、マニラのホテルにあったディスコに視察に行った。そのディスコでレインライトによる演出と、DJによるパフォーマンスに我々は衝撃を受けた。

M: どうぞ詳しくお話しください。

T: まずレインライトと呼ばれる照明は、それまで日本のディスコには無かった。今ではムーヴィングライト等が当たり前にあるけど、当時日本のディスコの照明は、点滅する程度で大した物は無かった。そして何より2台のレコードプレイヤーを使って、曲と曲を違和感なく繋ぐミックスの技に肝を抜かれた。それまで日本のディスコでは、生バンドを入れたりして1曲終わったら次の曲だったからね。それが照明も扱うは、曲をノンストップで繋ぐは、そのテクニックとスタイルには、本当に衝撃的で驚いたね。これぞエンターテイメントだと確信したよ。

M: 当時のディスコは、フィリピンの方が進んでいたのですね。

T: そう。経済は日本の方が上だが、ディスコはフィリピンの方が最先端だった。それで菅野代表がそのスタイルをどうしても日本に持ち込みたくって、英語が堪能な豊島さんを使ってDJの引き抜きを試みた。それでレインライトの事を教わり、早速アメリカに手配した。そのレインライトを初めて装備して、ライティングショーを行ったのが「大阪ジジック」。「大阪ジジック」は行列ができるほど大成功して凄かった。またフィリピンのそのディスコと同じ店名で、六本木にオープンさせたのが「キュー」だよ。

M: それでは日本のディスコシーンに初めて、レインライトを投入させたのはノヴァ21グループだったのですね。

T: その通り。我々が持ち込んだおかげで、それからディスコは照明に拘るようになる訳だね。またDJも日本に連れて来る事になったが、入管で許可が下りなかった。

M: それは何故ですか?

T: 入管から日本では既にDJで活躍している有名な糸居五郎氏がいるとの事で、DJの職種では入国を認めてくれなかった。まだDJへの価値観が理解されなかった時代だったね。そこでアメリカからDJのスタイルが紹介されている雑誌を取り寄せ説明して、ようやく許可が下りた。そして日本のスタッフに皿回しを指導した。それまで彼のようなDJは、日本にいなかったからモテモテだったよ(笑)。だからその後のマハラジャ等でのDJスタイルは、我々が日本に持ち込んで確立させた事になる。正にディスコでの照明演出と、DJスタイルの革命を起こした訳だ。

M: なるほどマハラジャやその後のディスコシーンは、フィリピンの影響だったのですね。それでは玉木さんはマハラジャには、いつ頃から関わったのですか?

T: 「大阪ジジック」の大成功で1号店である「大阪マハラジャ」が誕生して大人気となり、マハラジャの全国展開を行う事になった。その前後に私は常務取締役となった。マハラジャについては誰もが東京の麻布十番が1号店で本店と思っているけど、実際は7番目と後からオープンした。それでマハラジャが東京に進出する前・・・そう「熊本マハラジャ」のオープンに携わる頃、私は店舗開発部の責任者にもなった。それまで物件探しや条件の交渉と契約は、全て菅野代表が直接行っていたからね。

M: その店舗開発の仕事とは?

T: 菅野代表が直接行っていた事を全て引き継いだ。新店舗の物件探しや交渉、それに風営法・消防法の申請や検査の立会いが主となる。

M: 新店舗の出店条件とは?

T: 立地の良さ・保証金や家賃の安さは基本だけど、我々は流行のお店を展開していたので、大学の数やその街のファッションセンスも重視していた。

M: なるほど。でもなかなか条件を満たす物件を探すのは大変だったのでは?

T: ところがそう苦労した訳でもないよ。

M: と、言いますと?

T: 世の中は「マハラジャ・シンドローム」だったからね。こちらで物件を探さなくても、先方からわざわざ六本木の本社まで来て「是非マハラジャを出店してください。お願いします!」と、頭を下げてくれる。そんな出店依頼は毎日のようにあったね。立場的にもこちらが上なので、条件も有利に進められた。何より売り手市場だから良い物件を選べる。その頃はマハラジャが出店すると、その街全体の活性化になって、大きな経済効果をもたらせた。またマスコミ等も「大都市の条件はマハラジャがある事」と煽っていたからね。それだけマハラジャは期待されていた訳だ。

M: それは凄いですね。では、幻になった出店地域もあったのですね。

T: もちろん。盛岡とかも行ったしいっぱいあったよ。さらに海外からも引き合いがあったからね。また大手企業からも多く声を掛けて貰った。映画会社からは松竹なら「マハラジャ祇園」「浜松マハラジャ」「浜松2001年」、東映なら「長崎マハラジャ」だね。

M: 現在のクラブシーンでは考えられませんが、ホテルにも多く出店しましたね。

T: そう。ホテル関係は電鉄系から来た。阪急なら新阪急ホテルアネックスに「マハラジャ梅田」「トッツイー梅田」、その関係でJRのターミナルホテルを紹介して貰い「広島マハラジャ」が出店した。それと南海からもお願いされて心斎橋に「しゃぶ禅」を出店。さらに東急からも声が掛かって「エデンロック」「前橋キング&クイーン」「しゃぶ禅 新潟店」。また電鉄系以外では、ダイエーから「神戸キング&クイーン」「神戸2001年」「神戸 最後の20セント」。日航からは「川崎キング&クイーン」「しゃぶ禅 川崎店」。他に「郡山マハラジャ」「豊橋キング&クイーン」もホテルだったね。これら一流ホテルには、企業としての信頼と実績が無いと絶対に入れない物件だ。それだけノヴァ21グループには、信用と期待があった事になる。

M: なるほど。ノヴァ21グループは、一流企業からも認められていたのですね。それではもう一つの仕事でもある風営法・消防法の申請についてお話ください。

T: 当時は地域によって前後があるが、申請して許可が下りるまでに約30日。オープン日を先に決め逆算して準備を行った。ちなみに現在は警察の指導で、オープン日を先に決めてはいけなく、「オープン予定」と表記しなければならない。また東京では許可が下りるのに約40日〜50日掛かるようになった。それだけ行政が厳しく、立場が強くなった訳だ。ディスコ・カラオケ・パブ・レストランの中では、ディスコが一番厳しく面倒だったね。

M: 多数の出店準備を手掛けた実績を持つ玉木さんなら、きっと各店スムーズにオープンできた事でしょう。

T: いやところが「宇都宮サハラ」では、失敗談もある。

M: どうぞお話しください。

T: 宇都宮に新しいマハラジャサルーンが出店する事が決まった。そこで菅野代表は店舗開発部の部下に仕事を覚えさせる為、自ら宇都宮に連れて行った。だから私は担当しなくても良いと思い宇都宮には1度も行かなかった。ところが任された部下は、申請に関してはまだよく理解していなかった。しかも依頼した行政書士の先生もディスコは初めてだったようで、段取りを分かっていない。結果、申請が遅れてしまい許可が下りる前にオープン日になってしまった。そこで仕方なくオープニングレセプションのみディスコ営業をして、翌日のグランドオープンからは踊れなくなった。そんな大失態があったので、上司である私が責任を取らされて、常務取締役から取締役に降格した。しかも給料も下がったからね。でも菅野代表は2ヶ月で元に戻してくれた。

M: そんなハプニングもあったのですね。ところで玉木さんは、警察関係にも人脈が多いと聞きましたが・・・

T: 先の自衛隊での話しもそうですが、行政への働きかけやトラブルへの対応が私の仕事。その関係で官庁関係の人脈を築いて、それらは全て一人で構築したよ。またそのおかげで、六本木界隈にディスコが39店もあった全盛期には、六本木ディスコ防犯協議会の会長を任された。

M: トラブルの対応も行ったのですか?

T: そう。ナイトレジャーにはトラブルが付き物。それらの対応と度胸は、「仙台 最後の20セント」の勤務時に身に付いた。警察や検事から対処法を学んでね。それからトラブルに直ぐ対応する為、新規オープンする地域の警察に挨拶に行ったり、情報収集したりして根回しを行った。そう「沖縄マハラジャ」のオープニングでは、入場を断られたお客さんが暴れだしてね。でも事前に警察の本部長に頼んでいたので、警戒して待機していた覆面パトカー3台が、直ぐに駆けつけてくれて対処してくれた。私は体も小さいし喧嘩もできない。それでも皆が嫌がる仕事をやらなければならない。ゆえに自分なりに考えて対応策を身に付けた。

M: それらトラブルは店舗の運営会社ごとで、対応していたのではないのですか?

T: 大きなトラブルや行政への申請・風営や消防の検査の立会い等は、各店舗の運営会社ではノウハウが無いから対応できない。だから私が本社から直接出向いて処理をしていた。そのおかげで年間200日は出張だったよ。特に大阪はトラブルが多かったから、2週間泊りがけで対応した事もある。

M: どのような事があったのですか?

T: 大阪の大淵社長がフンドシ姿で自ら営業していた頃、「大阪 泥棒貴族」のビルのオーナーが変わって、エレベーターや電気を消される嫌がらせが続いてね。それで直談判しに相手の事務所に行った。真っ暗な部屋に通されて、ドアが「バタン!」と大きな音がした時は、さすがに怖かったよ。

M: また全国的には、どのようなエピソードがありましたか?

T: 2フロアの「麻布十番マハラジャ」では、駐車場側である右側に階段があったが、それを塞いで店内奥に新たな階段を造った。それが防火区画の関係で、消防と揉めて大変だったね。また菅野代表が両フロア共に大理石を張ろうとしたが、私は反対して「1Fは大事ですが、2Fは暗く分からないからテラゾー(人工大理石)で仕上げましょう」と提案した。予算を抑えるのも私の仕事だったからね。

M: なるほど。オープンするまでにも大変な問題と、苦労があるのですね。

T: それと「マハラジャ祇園」のダンスフロアには、2段階にせり上がる巨大な回転式のお立ち台があったでしょう。

M: 蟹HI(石川島播磨重工業)の特注のですね。

T: そう。あのお立ち台を設置したら、重みで床が5cm位沈んだ。それで下階の映画館に急遽休んで貰って、梁の補強工事を行った。

M: ところで「青山キング&クイーン」のあの場所は、ディスコ営業の許可が取れたのは、奇跡だったと聞いた事がありますが・・・

T: 実はあの場所は、文教地区で風俗営業は不可だった。それで基礎工事後に事情を知らなかった不動産屋が申請しても許可が下りないので、慌てて工事中止の要望があり約2週間中断した。これはいけないと思った私は、最後の手段としてウルトラCどころか、ウルトラDを決行する事にした。

M: そのウルトラD・・・とは?

T: まず陳情して、特別に文教地区から外して貰った。それともっとも大きな問題が、裏手に幼稚園があった事だった。風営法では幼稚園から50m離れていなければならない。実際その幼稚園からは50m以上離れていたが、幼稚園はお寺内にあったので、お寺の門から距離を測る事になった。そこで警察立会いの下にメージャーで測り「50m」を証明して、それで許可が下りた訳だ。まさに奇跡のテクニックだった!

M: ・・・

T: 本来あの場所では、ディスコなんてオープンできなかったからね。それに初のキング&クイーンなので、会社もかなり力を入れていた。例えば坪単価にすると「最後20セント」は約44万円、その後の店舗は約80万円になって、マハラジャでは約130万円掛けていた。ところが「青山キング&クイーン」には、何と坪200万円掛けた!だから私にとって「青山キング&クイーン」は、最高傑作のディスコ。今後あれだけのディスコをオープンさせる人はいないだろうね。

M: もし許可が下りず、「青山キング&クイーン」がオープンしていなければ、その後のキング&クイーン全国展開は無かったかもしれないですね。

T: そうだろうね。また「名古屋キング&クイーン」もオープンするまで大変だった。スプリンクラーとかいろいろと指摘されてね。それで消防に直接意見した。

M: 玉木さんは店舗の設計・施工に関しても担当していたのですか?

T: そう。ノヴァ21グループが依頼していた施工会社は、潟gライ、大信工芸梶A樺O青社、椛D場、轄O匠の5社が主で、中でも潟gライが多かったね。各社に図面を渡し見積もりを出さして、入札で決めていた。そしてノヴァ21グループからは私と菅野代表、それに設計の先生と施工会社の担当者とで打ち合わせを行った。私は店舗の防火についても意見や指示が出来たからね。

M: 設計会社も何社かあったのですか?

T: 最初の頃は潟Gム・ディー(武藤デザイン事務所)に依頼していたが、途中から西村部長を引き抜いて専属にした。またその関係で独立した外山先生、庄子先生、紺野先生、武田先生、高橋先生には、各店舗の特色を生かす為に振り分けていた。

M: 店舗施工に関してのエピソードはありますか?

T: 「エデンロック」が東京ベイホテル東急にオープンする事が決まったが、ホテルだから冷暖房がいつでも入る四菅式配管だった。これだとホテル内が寒くて暖房を入れても、ディスコでは熱気で暑いから冷房に切り替えられない。しかもコストが高い。そこで1Fの植え込みに別途、独立の大きな室外機を設置した。その交渉も私が直接行った。

M: それはある程度、建設に関して知識がないと無理ですね。

T: そうだね。また「静岡キング&クイーン」「静岡2001年」「しゃぶ禅 静岡店」が同時オープンした静岡では、ビルが新築だったので三菱地所が設計を行いゼネコンが工事した。ところがB工事に関しては、我々と取り合いになってもめたね。

M: B工事とは何ですか?

T: ゼネコンが行う本体工事はA工事と呼ばれ、我々が行う店舗の内装工事はC工事と呼ぶ。そしてB工事とは、電気の配線や配管の事。このB工事をこちらで受ければ、予算を抑える事が出来る。その交渉も私が担当して、お互い譲らないまま平行線になって、とうとう頭に来たから「もう出店をやめた!」ってね。そしたら何とか勝ち取ったよ(笑)。

M: 玉木さんから見て、数あるマハラジャの全国展開はどう思いますか?

T: 1ブランドの店名で全国に多く出店したディスコは、今後絶対に現れないでしょう。ところがマハラジャは、1都市に1店舗の出店が良かったのでは?と思う。大阪や名古屋はキング&クイーンを含めると、マハラジャが5店舗もあったからね。そのような過剰が無かったら、マハラジャは崩壊していなかったと思う。だから菅野代表に逆らって、しゃぶ禅の展開を進めた訳だ。私と豊島さんとで某有名店から店長とマネージャーを引き抜き、しゃぶしゃぶのノウハウを得て、そして六本木にしゃぶ禅の1号店をオープンする事が出来た。

M: しゃぶ禅出店のエピソードはありますか?

T: 博多ではテレビ局KBCのスタジオが、隣りの新館に移る事になった。そのスタジオにマハラジャが出店する事に決まってね。スタジオだから防音に優れていたから良かった。それで工事中の新館をKBCの専務に案内されて9Fに行くと、ガラス張りから玄海難が見渡せて最高だった。しかも120坪の空きで、坪7千円の破格。そこで菅野代表の許可を貰わず直ぐに契約した。本社に戻ってその事を報告すると、菅野代表からは「何でマハラジャより先にしゃぶ禅をやるんだ!」と怒られたが、結果的には良かった。しゃぶ禅も全国展開して成功したからね。

M: 改めて玉木さんは、ノヴァ21グループでの功績が大きかったと確信しました。

T: 菅野代表からの信頼もあったし、何とか応えようと頑張った。そのおかげで恒例の新年会では、特別功労賞を2回受賞したよ。賞金30万円とロレックスやブルガリの時計を貰った。ちなみに菅野代表からは、事前に好きな時計を選ばしてくれた。本社勤務の特権だったね(笑)。

M: 最後になりますが、玉木さんにとってマハラジャとは?

T: 私の人生の半分を占めた華やかで、一番楽しかった時代。もちろん辛くもあったが、一つの歴史を創った自負もある。苦労して出店を決め、オープニングレセプションでタキシードを着て、お客様を迎える時が最高の一時だよ。その喜びを知っているから、この歳で今でもクラブシーンに携わっている。それらは全てマハラジャのおかげ。

M: 本日はお忙しいところお時間を頂きありがとうございました。

T: こちらこそありがとう。

('10年2月 六本木キング&クイーンにて)

MAHARAJA WEB SITE

Copyright © 2010 Miehar. All Rights Reserved.

inserted by FC2 system