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マハラジャ・ウェブサイト(以下Mと省略): 本日は、お忙しいところ、お時間を頂きましてありがとうございます。「マハラジャ・ウェブサイト」では成田社長の問い合わせが非常に多い為、今回「マハラジャ」の大成功の立役者である成田社長の特集を組む事にしました。どうぞ宜しくお願いします。 成田勝氏(以下Nと省略): ありがとうございます。こちらこそ宜しくお願いします。 M: 早速ですが「麻布十番マハラジャ」を立ち上げるまでのエピソードをお聞かせください。 N: はい。最初は歌手を目指して上京したんです。平尾昌晃さんの弟子になり歌のレッスンに励みました。でもそれだけでは生活できないので六本木のディスコで働き始めたのです。 M: それがノヴァ21グループとの出会いですね。 N: いえ違います。スクエアビルの某ディスコです。(笑) M: それは知りませんでした。 N: そして平尾昌晃さんが六本木にライブハウスのお店をオープンする事になり、そちらに移ったのです。 M: 「スパッツ」ですね。ここで初めてノヴァ21グループと出会う訳ですね。 N: そうです。更に弟の恭教も六本木にカラオケの「2001年」をオープンさせ大成功しました。 M: あの芸能人御用達のカラオケ店ですね。でも弟さんの方が先に社長になられたのですか。 N: はい。恭教は22歳で社長になりました。 M: なるほど、それで成田社長はいかがなされたのですか? N: 私は歌と仕事の両立に悩む日が続きました。そんな時に父親が亡くなったのです。そして「このままではダメだ。何かやらねば。」と決意した時に「東京マハラジャ」オープンの話が来たのです。 M: やはり何か決意をすると運もやって来るのですね。でも何故、成田社長に「マハラジャ」の話しが来たのですか? N: 恭教が「2001年」で成功したので、兄ならもっと大成功するだろうとの事らしいですよ。(笑) M: そんな御謙遜を・・・(笑)そんな重圧の中、すぐにお引き受けされたのですか? N: 失敗しても失う物がなかったし何よりも若かったからチャレンジ精神がありましたね。しかし大阪で先にオープンした「マハラジャ」がブレイクしていたものの、東京ではカフェバー人気でディスコは冬の時代でした。お店の物件も六本木で探していたのですが何処も60〜70坪位のスペースで良い所はありませんでした。 M: お店の広さにこだわられた訳ですか? N: えぇ、ちょうどその頃「熊本マハラジャ」がオープンし視察に行ったのですが、豪華な内装にVIPルームがあり、そして何よりお店が広い事に驚きました。こんなお店を東京でやったら絶対に流行ると確信しましたね。 M: 遠く離れた「熊本マハラジャ」にひらめかれたとは、おもしろいですね。 N: それで広いスペースの物件を探していたら麻布十番のあの場所を見つけたのです。最初は2階だけを使用する計画もあったのですが私のイメージと異なる為、飲食店だった1階も併せて作る事にしたんです。 M: そうだったのですか。しかし六本木駅より徒歩15分かかるこの場所で不安は無かったのですか? N: 不安はありませんでしたけど、当時は今の様に地下鉄の駅も無く周りには何もありませんでした。私とノヴァ21グループの菅野代表以外は皆、猛反対でした。でも周りが「絶対失敗する」と言うと案外成功するもので、その時の喜びもひとしおですしね。そして何よりも反対した人達に「成功した」と言いたかったし意気込みは非常にありました。 M: 今のお話しで改めて確信しました。やはり「東京マハラジャ」の大成功は成田社長なしでは成し得なかったのですね。 N: ありがとうございます。ご協力頂いた方々やスタッフのお陰で各方面より高い評価を頂きました。 M: 最後に成田社長にとって「マハラジャ」とは? N: 「マハラジャ」の成功により、東京では「エリア」「ジュリアナ東京」「ヴェルファーレ」がオープンしたと言っても過言ではありません。すなわち「マハラジャ」とは今日迄のディスコの基礎を創ったお店なのです。 M: なるほど。ここに「KING OF DISCOTHEQUES / MAHARAJA」の云われがあるのですね。本日はお忙しいところ貴重なお話しとお時間を頂きましてありがとうございました。これからも「マハラジャ・ウェブサイト」について、ご指導宜しくお願いします。 N: こちらこそ、ありがとうございました。「マハラジャ・ウェブサイト」は私も見ていますよ。頑張ってください。 ('02年4月20日 六本木ヴェルファーレ・TCVにて) 後記: 183cmの長身に品の良いスーツを着こなし、にこやかに話して頂いた成田勝氏。 |
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