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MAHARAJA 四條text : Yasushi Iwata

Story of MAHARAJA SHIJO

マハラジャ四條物語

どん底から頂点へ

 '86年を頂点としたユーロビート・ブームも一段落し、京都でも生き残りを賭けて多くのディスコが鎬を削っていた。特に'88年にはイマージアムビルが完成、「ガイア」「トゥルー」がオープンし京都のディスコ業界は飽和状態だった。
 '88年上半期の「マハラジャ四條」はどん底の状態だった。土曜日は200名程のお客様で盛り上がりを見せていたが、平日の集客は目も当てられない程でお客様より従業員の方が多いという状況もあった。
 京都地区のマハラジャは「四條」「祇園」「クラブ」の3店舗。「四條」というものの祇園の真ん中に位置し、全国的に有名だった「マハラジャ祇園」から徒歩5分という近さだった。また祇園という街は年齢層が高く、20歳前後の若者が多く遊んでいる木屋町とは雰囲気を異にしていた。
 オープンから5年が経った「四條」は、照明も陳腐で天井も低く、店としての魅力は「祇園」に比べると明らかに劣っていた。
 そこで京都地区の社長である熊谷カール氏は、「四條」と「祇園」の明確な色分を指示し従業員の人事異動を行った。
 「祇園」は服装チェックを強化しハウス中心の選曲とし、「四條」は服装チェックを緩和しカジュアルな雰囲気で盛り上がって貰えるようにユーロビート中心の選曲とした。同じマハラジャの名前を冠しているいるのだが営業方針の違いにより二店はまるで別の店だった。
 「四條」の営業の中で一番重要視されたのは「ビラ撒き」による集客と、従業員を中心とした「盛り上げ」であった。
 まず「ビラ撒き」についてだが、出勤し開店の準備が整うと、必要最小限の数の従業員を店に残し、毎日ビラ撒きに徹した。ビラ撒きの行為自体は珍しくもないが、撒くビラの量が桁違いであった。一日一万枚。23時過ぎまでビラ撒きをして店に戻り、最後の盛り上げだけ参加して閉店という事も珍しくなかった。とにかく大変な作業であった。
 次に「盛り上げ」についてだが、京都ではまだ「パラパラ」という言葉はまだ無く「振り付け」と呼ばれていたが、2時間ごとに行われる盛り上げタイムでDJやウェイターがお客様の前で振り付けを踊るのである。従業員がお客様の前で踊るというスタイルは既に「名古屋地区マハラジャ」でも取り入れられていたが、踊りが複雑で手足の動きが大きく「四條」の目指すものとは全く違っていた。「振り付け」は主に手の動きを中心としたもので、初めてディスコに来られたお客様にも踊れる簡単なものだった。
 '92年に「四條」が閉店する迄に振り付けの付いた曲は100曲を超えたが、「四條」の振り付け第一号の曲は「UPSIDE DOWN / COO COO」で第二号は「MEET MY FRIEND」だった。共に大阪で踊られていた振り付けをアレンジしたものであった。
 勿論振りの無い曲でも踊り、積極的に掛け声を出しお客様を盛り上げた。
 声を出すのは盛り上げタイムだけではなかった。時間に関わらずウェイターは新規入場のお客様に対して(居酒屋の従業員みたく)大声で「こんばんは!いらっしゃいませ!」と挨拶することを徹底した。大声で接客することで店を活気付かせ、お客様にはテンションを上げて貰うという訳である。合計90坪の狭いお店は、活気ある雰囲気を作りやすかった。
 この様に山本支配人以下従業員が一丸となった努力によって'88年後半期から徐々にお客様が集まり、売上目標を達成していった。
 '89年6月には売上目標達成率200%を超え、全国のグループ会社、社員より注目されることとなった。

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