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MAHARAJA六本木ディスコ興亡史
マハラジャ王国期

Kingdom of MAHARAJA

マハラジャ王国

叶「界文化社刊「ザ・ビッグマン」207号より引用

 六本木といってもはずれの麻布十番に、大阪からどえらい店がやってきたのは'84年12月。六本木にディスコ族を呼び戻し、以後現代にわたって数々の王国文化を創出していった「マハラジャ」の出現である。
 マハラジャ王国が生み出した文化のいくつかをあげてみよう。
 まず、入店チェック。服装やスタイルなど、店側がOKした客しか店内にいれないという制度で、入れなかった人はダサイとのレッテルが貼られるという恐怖の踏絵制度がここから広がっていった。俗にチェックディスコと呼ばれるカテゴリーが確立されたのである。しかし外人モデルや芸能人はフリーパスであるという差別感が生まれ不満も出たが、今では当然と思われるようになっている。
 お立ち台。ダンスフロアの端の1段高い台に、女の子が上がって踊るという風習がマハラジャから発生した。これは名古屋マハラジャでパーティがあった時、ハイになった連中がフロアのスピーカーの上に乗って踊りだしたのがヒントとなって、東京マハラジャオープンの時には専用のお立ち台として登場。それが他ディスコに浸透していった。
 笑う黒服。それまでのディスコの従業員というのはのってる客を目尻に冷静っぽくニヒルな存在と相場は決まっていた。つっぱっていて取っ付きにくかったのである。ところがマハラジャでは階級別に色分けされた制服従業員たち(黒服が一番エライ)の愛想はいいわ笑顔で踊るわで、果ては客同士の仲を取り持ったりして、とにかくディスコがサービス産業であったことを客に思い出させてくれたのである。このかいあってか、東京マハラジャ社長の成田勝さんを頂点とした黒服は時代の寵児となり、成田さんは歌手としてレコードデビューさえ果たした。
 こうして諸文化を生み出したマハラジャに入店チェックをパスして群れた連中は、ジュンコ・シマダのボディコンシャスなスーツに身を包んだヴァンサンカン系女子大生たち、それをナンパしようとする日焼け化粧品とルーズフィットスーツで武装した私立おぼっちゃま系の男どもである。それが外車ブームのはしりのBMWなんかで乗りつけたわけだ。フロアでは日に4回の従業員による「盛り上げ」によって、舞い上がってたボディコン娘がお立ち台に上がっては、ソバージュのロングヘアをけだるそうにかきあげながら身をくねらす日々が続いたのである。
 現在マハラジャを頂点とした飲食店を140余店も持つノヴァ・インターナショナルの総帥、菅野諒さんがマハラジャを創った人である。140余店の各店は、ノヴァの関連会社になっており、合わせてノヴァ21グループを構成しているのである。その菅野さんが大阪にマハラジャ1号店をオープンさせたのが'82年。それから京都、名古屋、仙台、熊本、札幌とハイピッチで造り続けて7軒目で東京に殴り込みをかけたのである。
 「それまではディスコ・ダンスというと“メダカの体操”でね、鏡に向かって同じステップを踏んでた。これは子どものディスコ。食事もグチャグチャのスパゲティやベチャベチャのピラフなんか。これじゃダメだ、ディスコも高級化、差別化、オトナの時代に入ったと思って、店舗をパリのクリヨンやリッツみたいに贅沢にした。ダンスフロアだけで1億円はかかってます。そして店に相応しい人にきていただきたいと思いから、入店チェックを思いついた。サービスは大阪的な痒い所に手が届く方式。日本人はみんな新貴族階級になりたいと思ってるんです。その特別意識をくすぐるのがマハラジャ・コンセプトですよ」
 菅野さんの愛称はまことという名前からマコリン。この菅野さんこそ六本木にディスコ熱狂族を呼び戻し、長く統治君臨したマハラジャ王国のマコリン大王なのである。

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