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Y. IWATA

マハラジャひとすじ

tama マハラジャの魅力と内緒の話 tama

マハラジャ・ウェブサイト(以下Mと省略): どうぞ宜しくお願いいたします。

岩田(以下Iと省略): こちらこそ宜しくお願いします・・・っていうか、照れます。

M: まずマハラジャとの出会いを、お話ください。

I: はい。ジャズ・ディフェクターズのライヴを見に「マハラジャ祇園(以下、祇園)」に行ったのが最初です。店内の熱気、豪華な内装、従業員の華やかさに驚きました。

M: マハラジャで働くようになった経緯は?

I: 18歳の頃に付き合っていた彼女が、高校生なのにディスコが好きでよく一緒に「マハラジャ四條(以下、四條)」に行っており、私も従業員と顔馴染みになり'88年(昭和63年)の夏から働く事になりました。本当は「祇園」のVIPで働きたかったのですが、身長も低い(164cm)ので「四條」になりました。まぁ、結果的に見れば「四條」で良かったんですけど・・・

M: 従業員の目から見ての「四條」はどうでしたか。

I: まず「上下関係の厳しさ」と「掃除の徹底」の二点を強く感じました。まず「上下関係」ですが、役職は細分化されておりウェイター間でも厳しかったです。一週間前に入店した先輩と私の間でも、上下関係がありましたから。「四條」で働く前に「チャイナ・エキスプレス」で働いていたので、少しはウェイターとしての仕事はわかっていましたが、「四條」では入店順にウェイター番号が付けられており一番末端からのスタートでした。このウェイター番号は、オーダースリップの担当者欄にも記入する事になっており、私は「11番」からでした。先輩のウェイターがキャップに昇格したり辞めたりすると、番号が減っていくんです。「東京マハラジャウェスト(以下、東京ウェスト)」に異動する迄の1年半に「2番」になれました。ちなみに「1番」のウェイターは「トップ・ウェイター」と呼ばれていました。制服は一般ウェイターと同じですけどね。
 次に「掃除の徹底」ですが、毎日毎日エントランスの床の大理石をガラスクリーナーで曇り一つ無く磨いていたのを、よく覚えています。営業後は、よくトイレ掃除をやっていた記憶があります。基本的に「女便(じょべん)」は一番末端のウェイターの仕事で、一人部下ができると「男便(だんべん)」に昇格するといった感じです。ところで年号が「平成」になってから、一度、私より下のウェイターが先輩の「イジメ」に反発して5・6人程一斉に辞めた事がありました。私は「2番」だったにも関わらず女便掃除をしていた覚えがあります。「四條」は私が入店した時、既にオープンして5年経っていたので内装もそれなりでしたが、掃除が徹底されており(手前味噌ですが)小奇麗な店でした。

M: 「四條」といえば、あの「盛り上げ」による熱気ですよね。

I: はい。私が入店して3ヵ月ほど経った頃「UPSIDE DOWN / COO COO」がリリースされ、名古屋方面から振り付けが入ってきました。当初はウェイターやDJのレベルだったのですが、振り付けを簡素化・統一し、店の従業員一丸となって「盛り上げ」を行なうという方針が決まりました。そうして毎日3・4回行なわれる「盛り上げタイム」には、どんなに忙しい時でも必ず、従業員がお立ち台で踊り、ドリンクを運んでいるウェイターも大きな声を出して、盛り上げていました。

M: それで「四條」の人気が爆発したと・・・

I: いいえ、「盛り上げ」の充実だけではありません。詳しくは話せませんが・・・毎日街頭での1万枚のビラ撒き、接客サービスの向上なども、絶対に外せない要因だと思います。実際にすぐ結果が出た訳でもありません。平日の「盛り上げ」もお客様より従業員の数の方が多いって事が結構ありました。当時は「CS(カスタマー・サティスファクション)」なんて言葉はありませんでしたが、毎日「QC(クオリティ・コントロール)」をする事により、自然と「お客様に満足していただきたい」という気持ちが従業員全員が持てました。勿論、お客様の動員数は関係無しです。実際問題、ガラガラの店内で接客するのは(今では)つらいものがありますが・・・当時はそこまで、気になりませんでした。

M: では次に「東京ウェスト」に異動した経緯を、お話ください。

I: はい。そんな訳で「四條」は売上げ達成率200%を越える程の大ヒットとなり、全国のマハラジャから多くの方々に視察・研修に来て頂きました。その時に「東京ウェスト」の南主任(当時)と出会えました。私は「四條」の従業員である事を誇りに思っていましたが、他のマハラジャにも興味があり、また成田社長への憧れなどもあって、南主任に「必ず『東京ウェスト』に行きますから」と言っておきました。多分、南主任は「遊びに来るんだろう」と思っておられたと思いますが、「四條」の公休日に私は制服を持って働きに行きました。「ヘルプ」というより「遠征」です。2日間だけでしたが「東京ウェスト」の従業員の方には歓迎して頂き、一緒に「盛り上げ」をしたり接客を勉強させて頂きました。

M: それで「東京ウェスト」に異動したと・・・

I: いいえ、「東京ウェスト」に異動するつもりはなく「四條」の勤務を続けながら、同様に「福山マハラジャ」にも遠征に行きました。ご存知の通り、同じ「ノヴァ21グループ」でも運営会社は各地区別会社で、ましてやウェイター・レベルでの交流なんてありません。勝手に遠征に行っているのが「四條」の管理職にバレてクビになってしまいました。その一週間後には「東京ウェスト」で働こうと上京しました。

M: これが「原チャリ伝説」ですか。

I: はい。東京での生活に原チャリが必要と思ったので、どうせならコレで行こうという訳です。当面の生活費16万円と、マイ・トレンチ、編み上げブーツだけ持って、原チャリで六本木を目指しました。地図は持たずに国道1号線の標識を見ながらで、ガソリンも30回位給油したと思います。

M: 無謀ですね。

I: 高校生の時に自転車で広島へ往復した事もあるので、大した事ではありません。無事に六本木に着き、金曜日だったのでその日から働かせて貰いました。今から考えるとアポ無しにも関わらず、寛大な対応をして貰えたと思います。

M: 憧れの成田社長のもとで働いた「東京ウェスト」はどうでしたか?

I: 接客技術の高さに改めて驚きました。例えばお客様のテーブルにお食事を運び、膝掛けナプキンをお掛けし、状況に応じて取り分けをする・・・京都だったらVIPルーム並みのサービスを、ホールで行なっていましたからね。本当、細かい接客技術を挙げていくとキリが無いです。「これが成田社長のおっしゃる『ホスピタリティ』か」と納得し、実践していきました。
 また小さなお店で従業員も少なかったので、あらゆるセクションの仕事を覚えました。VIPルーム、フロントやレジ業務、パーティ契約、従業員の給与計算・・・支配人クラスの仕事を経験する事ができました。この時の経験が基となり「なんでもこなせる従業員の育成」を持論として確立しました。大箱に見られる、細かいセクション分けは・・・(凄く長いので省略)・・・そうして人件費削減が達成できるのです!あっ、すみません。話を元に戻します。(「東京ウェスト」での私は)あらゆるセクションに対応する為、役職はキャプテンなのにタキシードでした。

M: その点を詳しく教えてください。

I: 関西では「トップ・ウェイター」の一つ上の役職を「キャップ」と言い、タキシード着用です。関東では「ヘッド・ウェイター」の一つ上の役職を「キャプテン」と言い、ウェイターの制服の色違いというのが通例です。私はウェイターの期間が「四條」「東京ウェスト」を通じて3年と長く、制服も6種類以上は着てきました。ですからキャプテンへの昇格とタキシード着用は、本当にうれしかったです。自身の昇格祝いという事で、当時の部下やアルバイトさん達を連れて上野に繰り出し焼肉パーティをしました。そうそう「東京本店」「東京ウェスト」は、毎年12月7日に制服が変わっていました。まぁ、これも楽しみの一つだったんですけどね。

M: 「盛り上げ」に関してはどうでしたか。

I: 「東京ウェスト」はお立ち台が無かったので、ハイテーブルの上で「盛り上げ」をする従業員もいました。大抵、客席からイスを引っ張り出してその上で踊っていました。まぁ、どちらにしても余りスマートではなかったです。この「東京ウェストの盛り上げ」に関しては記憶が薄いんです。業務の幅が増えたからでしょうか・・・

M: そんな「東京ウェスト」も'91年9月に閉店する訳ですが、一番のエピソードは何でしたか。

I: それはなんと言っても「いい出会い」があったという事が一番でしょう。お客様、一緒に働いた仲間達と出会え、閉店後10年経っても連絡を取り合えるという・・・

M: 正にマハラジャ・ウェブサイトの理念「人の和の創造」、そのまんまの模範解答ですね。
 では次に「四條」へ復帰した経緯を、お話ください

I: 「東京ウェスト」の閉店が決まり、「四條」の方からのお誘いもあり、京都に戻る事にしました。勤務店舗については「四條」「祇園」のどちらでもいいですって事だったのですが、内心「祇園」のVIPで自分の力を試してみたい気はありました。そして「四條」に決まり、復帰しました。一度、クビになり「四條の敷居を二度とまたぐな」とまでに言われていたのですが、「東京ウェスト」で2年間頑張った事を評価してもらい「キャップ」での復帰となりました。

M: 復帰した「四條」はどうでしたか?

I: 以前の盛り上がりはなく、厳しい状況でした。抜けていた2年間の間に「振り付け」が増えていたので「盛り上げ」が苦痛でした。もっとも復帰の時点で「パラパラ」や「振り付け」に対して冷めていたのは事実です。

M: ユーロビートは大好きなんですよね。

I: えぇ、大好きです。聞けばグルーヴを感じて体も動きますから。でも「振り付け」で踊るのはちょっと引いてしまいます・・・ちょうど、この頃です。ターンテーブルとミキサーを買って、DJを勉強し始めたのは・・・

M: なぜDJを始めようとしたのですか。

I: 先程にもありましたが「なんでもこなせるのが理想の従業員だ」と信じていますから・・・とりあえず曲と曲を繋げれる様になればいいという程度です。しかし、これは後に大変役に立ちました。
 話を戻しましょう。復帰後、暫くして「徳島マハラジャ(以下、徳島)」へのオープニング・ヘルプを命じられ、赴きました。

M: (「新・マハラジャ東京」は別として)最後オープンのマハラジャとなった「徳島」ですね。詳しく教えてください。

I: えぇ、それまで私は経年経過したマハラジャでしか働いたことがなかったので、「まっさら」で「最新バージョン」なマハラジャに驚き、感激しました。「徳島」は2フロアの構造で、エントランス近くのレストラン・コーナーには、ガラスで仕切られた「サブVIP」がありました。女子トイレにはメイク・コーナーがあり、ソファーまでありました。ダンスフロアも吹き抜けで、DJブース・照明共に最新のシステムでした。
 私は「バーカウンター」を担当する事になりました。従業員の指導も、カウンター業務も得意分野ですから・・・余談というか自慢ですが「四條」時代に、400人の動員を1人でまわした事があります(グラス・灰皿洗い、込み)。そんな訳で、自分で編み出した「秘伝のカウンター技術」を伝授し、オープニングを乗り切りました。(ちょっと大げさ・・・)

M: 「秘伝のカウンター技術」について教えてください。

I: まず一切の「ムダな動き」を無くす事から始めます。例えば、お酒・グラス・氷を取る為にカウンター内で一歩動きますね。これが「ムダ」なんです。あとは「仕込み」です。これ以上は「秘伝」ですから教えられませんが、この方法でいけば個人の能力格差があっても、最低200人のお客様をカウンター1人でまわせる筈です・・・

M: 話が長引きそうなのでこれ位にしましょう。次に「祇園」に異動した経緯を、お話ください。

I: 実は「四條」の閉店が決まり、金本支配人との面談が行なわれた時に「『徳島』に行こうと思います」と言ったんです。すると「お前は、また『京都』を裏切るのか!」と凄い剣幕で怒られました。金本支配人には、最初の「四條」入店時の面接や、復帰時にもお手数を掛けたので、非礼を詫びて素直に従いました。

M: 「徳島」に行きたかった理由は?

I: 一言で言うと管理職になりたかったからです。やわらかく言えば「祇園」より「徳島」の方が、私を必要としてくれているのではと思っていたからです。

M: そして「祇園」のVIPルームに配属したと・・・

I: はい。私自身(ヘルプは別として)初めての大箱勤務となりました。VIPルーム担当という事で「東京ウェスト」時代に培ったスキルを充分に発揮できました。そして異動して間もなく、主任に昇格できました。キャプテンになるのに3年掛かったのに、副主任になるのに1年、主任になるのに半年で昇格できました。地方店・新店舗だと4・5年で主任というのは遅い昇格ですが、東京・京都では普通かと思われます。

M: 「ホワイト・オーキッド」営業については?

I: 全国的にみれば賛否両論あると思いますが、「祇園」に関しては(私の個人的意見で)やってよかったのではないでしょうか。手元の資料によると、'92年9月18日から'94年2月28日迄(日曜・祝祭日を除く、17時〜21時)営業していました。んー、数字もわかりますけど末期は悲惨ですね。
 「ホワイト・オーキッド」の売りは「しゃぶしゃぶ食べ放題コース」でしたけど、他に「大皿7品コース」や「単品メニュー」もたくさんありました。団体のお客様向きの店なので、単品はあまり出ませんでした。そういえば、オリジナル・メニューの「たこやきイタリアン」は絶品でした。

M: 「祇園」においての「ジュリアナ効果」についてお話ください。

I: はい。そのブームが徐々に波及し、顕著に数字に表れたのは'92年の年末からです。手元の資料によると、'93年8月28日(土)の営業で1383名のお客様にご来店頂いており、ピークは'93年の下半期だったと記憶しています。
 ご存知の通り、「お立ち台ギャル」の過激な露出ファッションが話題になり、毎日プレスの方が取材に来られました。

M: 「お立ち台ギャル」って仕込みだったんですよね。

I: 記憶にございません・・・そういえば、おもしろいエピソードを思い出しました。顔見知りの女性のお客様が「トップレスだったら『スーパーお立ち台』で踊ってもいいでしょ。後ろから岩田クンの手で胸を隠してね」と言われて、渋々「スーパーお立ち台」にのった事があります。後から支配人に怒られましたけど・・・えっ?胸の感触?そんなの覚えていませんよ!

M: 「お立ち台」は誰でも踊れるのでは・・・

I: 「お立ち台」「スーパーお立ち台」共に、選ばれたお客様しか踊れないんです。確か女子トイレにも張り紙をしてありました。「一般のお客様はご遠慮ください」って。この表現が曖昧なんです。例えば(男性のお客様は勿論ですが)女性で(省略)なお客様が「お立ち台」で踊っておられると、役職の付いた従業員(いわゆる「黒服」)が、すぐに飛んできて「お客様、申し訳ございませんが・・・」となる訳です。

M: これは、嫌な仕事ですね。

I: えぇ、私はVIPルーム担当だったり(省略)でしたので、その役目はなかったです。ホールの林副主任は、いつもこの仕事を(多分、渋々)されていました。この事を知っている女性のお客様は、林副主任と目が合い、近寄るだけで「お立ち台」から降りる程でした。その後、私が「今日のお衣装、お似合いですよ」とフォローしてました。ちょっと白々しかったかもしれませんが。
 そんな'93年の下半期頃に、VIPルームからホールに異動となりました。ホールの主任はフロントも兼ねていたので、かなり度胸がつきました。

M: それはどういう意味ですか。

I: ヤクザやチンピラなどの入店を断るからです。一度、断った客のグループに店の外で待ち伏せされて、数人に殴られた事があります。そんな事があっても、毅然たる態度を取れたのは「マハラジャのフロント担当」としての責任感だと思います。仕事ではなかったら・・・んー、無理でしょうね。

M: '94年の「パラパラ・ブーム」についてお話ください。

I: '94年の4月にエイベックスから「祇園」に「PARA PARA VIDEO」(いわゆる「経典ゼロ」)という非売品のビデオが30本程、送られてきました。まだまだ「ジュリアナ系テクノ」の人気も高かったのですが、メディアの力や、お客様からの要望もあり、'94年の8月から店としても「パラパラ」を推していく事になりました。9月には「PARA PARA PANIC Vol.1」と称するイベントも行なわれ、ゲストに(ビデオに出演の)アキラさんや森さんに来て頂きました。
 私個人としては「パラパラ」は踊りたくないけど、ユーロビートは大好きなので「パラパラ・ブーム」は大歓迎でした。たまにですが、一般営業中にレコードを回させて貰ったりして楽しかったです。

M: その頃の曲で、好きな曲はなんですか。

I: 挙げればキリがないのですが・・・「SHOTGUN KILLER / LOVE & PRIDE」「FUNKY FUNKY CHILD / SANDY BEE」など、当時の「TIME RECORDS」は今でも大好きです。あと「A Beat」だったら「DOCTOR AND THE MEDIC / DERRECK SIMONS」などが大好きです。超個人的な話で申し訳ないですが、GINO CARIAさんの大ファンなんです。後年「CKカフェ」で行なっていた「ミーハーナイト」でも、GINO CARIAさんのヴォーカル作品ばかりを1時間回した事もあります。

M: 「ミーハーナイト」のお話は後ほどお聞きします。'95年2月28日に「祇園」を退職される訳ですが、理由はなんですか?

I: はい。当時、真剣に結婚を考える程の彼女がいたのと、家業の関係です。これ以上は聞かないでください。

M: わかりました。それでは「祇園」時代の思い出深いエピソードをお話ください。但し、先程と同じ「いい出会いがあった」とか「下ネタ」以外でお願いします。

I: 注文の多い、聞き手ですね。んーと、「アガリ」の2日前に「祇園」に「TIME ALL STARS」として、G. CARIAさん、C. MORONIさん、Maio & Co.さんとお会いできたのは凄くうれしかったです。ライヴ終了後には、VIPルームにてお話する事もでき、G. CARIAさんから自身の被っていた「TIME RECORDS」のベースボール・キャップを戴きました。その時に「レコード・ジャケットに(あなた方自身の)写真を載せてください」とお願いし快諾してもらいました。後日談になりますが、「HI-HI-FRANKENSTEIN」と「YOU DON'T GIVE ME LOVE」のレコード・ジャケットを見てびっくりし感激しました。(感激のコメントは長いので省略)
 あと「アガリ」の日の最後、多くのお客様や従業員の仲間からねぎらって頂いた時は、ホント涙が出ました。

M: そうして7年間の、マハラジャ勤務を終えた訳ですね。しかし3年後に「CKカフェ」にDJとして復帰するという・・・

I: はい。'98年位に「祇園」時代のお客様が、「CKカフェ」でパーティをするからということで、DJとして呼んでくださいました。当時、京都や大阪では「ヨゴレ」というジャンルが大人気で、ユーロビートや(ジュリアナ系)テクノのDJが少なかった様です。それで何度かDJとして回している内に、'99年位から学生さん主催のパーティ(以下、学パ)のオファーが多くなってきました。2000年の「CKカフェ」での「学パ」のDJは、約6割は私だったと思います。

M: なぜ、そんなにオファーがあったのですか?

I: 別にプレイが上手いという訳ではありません。「ヨゴレ」「ユーロ」「テクノ」というミーハーなジャンルを一通り回せて、頼みやすかったからだと思います。後は「CKカフェ」の方で「ユーロビートのDJ」としてご推薦頂いたのも、大きかったです。

M: そして'00年4月から「ミーハーナイト」を始められたと・・・

I: チーフDJ(兼、店長)の高さんから「ゴールデン・ウィークに、パラパラのイベントをやれ」と言われたんです。タイトルについては、高さんから「『マハラジャナイト』でもいいぞ」という話もありましたが、パラパラで「マハラジャ」の名前は使いたくはありませんでした。一応、ユーロビート中心でヨゴレも回したかったので「ミーハーナイト」というタイトルに決めました。単発だと思っていたんですが、まだ一度も行なわない内に「来月も(ミーハーナイトを)やれ」ということで、ポスターやフライヤーを作成したり電話連絡をするなどして集客をはかりました。

M: そして第1回目のミーハーナイトは、どうでしたか?

I: はい。(「CKカフェ」の一般営業なのに)「学パ」の様なパーティだと思っていたのか、オープン前からギャルとギャル男のお客様に集まってもらいました。それでオープンして、スローの後に「WHEN I CLOSE MY EYES / CHERRY」をかけたら、いきなりダンスフロアが一杯になりました。第1回目のミーハーナイトの思い出はそれくらいしか覚えていません。
 (ミーハーナイトの思い出を続けます)月イチ開催で半年程してから土曜日に昇格しました。仕込みって訳ではないですが「ミーハーギャルズ」とか「ミーハークイーンズ」、「コスプレクイーンズ」などのユニットを作ったり、「水着パレオ・ナイト」「ミニスカ・サンタ」で集客したり、愛内里菜さんのライヴをブッキングしたり、倉庫にあった「祇園」の「スーパーお立ち台」を復活させたりと、ホント色々しました。月イチ(もしくは2回)の事でしたが、毎回ミーハーナイトの営業後は、胃が痛くてたまりませんでした。
※ ミーハーナイト(ミーハートランス)に関しては開催場所を移転して、現在も月イチ行なわれています。('04年4月で私は抜けました。ケンカ別れではないです)

M: ミーハーナイトの概念や目指したもの、大事にした事は?

I: はい。若い世代の方に「マハラジャ四條」の様な「熱気」を伝えたいというのと、ディスコやクラブに初めてくる方でも楽しんで貰えるというのを、大事にしています。はっきり言って、DJの選曲や技術は二の次です。DJを兼ねた責任者として一番大事で求め続けたのは「集客力」です。水商売だけでなくどんな仕事でも「営業・集客力」「従業員教育」は永遠の課題だと信じており、私のブレーンには「キメ細かな接客」を指示していました。極端に言えば「常連さんは接客しなくていいから、一見さんに声をお掛けなさい」といった具合です。後はプロデューサー(製作者)としては付加価値というか「ミーハーナイトらしさ」を大事にしました。ユーロビートの掛かるイベントなんか沢山あるわけで「絶対、ミーハー」とお客様に思っていただける事を目指しました。こういったオペレーションの話は長くなりますので、これ位にしておきます。

M: では次に「マハラジャ・ウェブサイト」の前身的存在、「CKカフェ」のホームページについてお話ください。

I: '00年12月上旬に、高さんより「店のホームページをクリスマス迄に作れ」といきなり言われました。当時の私は、そんなスキルは全く持っていませんでしたが、高さんの言われる事は「絶対」です。早速「学パ」で世話をしていた大学生のコに頼み、作らしたのです。そしてクリスマス・イヴに出来上がりアップしたのですが、何か納得できませんでした。年が明け、お正月休みを利用して、全て自分の手で作り直しました。そして出来上がったのは「CKカフェ」のホームページとはいうものの、コンテンツの9割はミーハーナイトや私の趣味のページ(「マハラジャ関係」や「ディスコのリスト」)が占めていました。まぁ当然の結果ですが・・・

M: そして岡戸さんと出会い「マハラジャ・ウェブサイト」を立ち上げたと・・・

I: はい。でも岡戸さんと出会ったのは「CKカフェ」が閉店してからです。
 「CKカフェ」の閉店('01年10月7日)が決まった時はショックでしたし、ノヴァ21グループがディスコ経営から完全撤退するということが、非常に悔しかったです。ここではっきり言っておきますが、この時の悔しさが後の「マハラジャ復活」への原動力となりました。
 話を戻します。「CKカフェ」が閉店して一ヵ月程経った11月の下旬に岡戸さんと知り合い、菅野代表の全面協力を得て'02年の元旦に「マハラジャ・ウェブサイト」をスタートさせました。このあたりの経緯は、岡戸さんのインタビューを見てください。
 当初のコンテンツは「マハラジャのリスト」と「大好き!マハラジャ」だけで、全てのページを合わせても10ページ程だったと思います。「マハラジャのリスト」は各店舗のページまでありませんでした。「大好き!マハラジャ」というのは、マハラジャ・グッズや関連の資料を紹介するコーナーでした。結構マニアックなコンテンツでしたが、サイトのリニューアルの時に廃止となりました。

M: サイトを作るのに、苦労した点を教えてください。

I: 「インタビュー」にはいつも苦労しています。お話して頂いた通りにアップしている訳ではありません。何度も録音テープを聞き、伝えたい事や表現や順序などに注意し編集しています。'02年5月にアップした「成田勝氏のインタビュー」を始め、大好評の「インタビュー・シリーズ」は、人選・聞き手・編集と主にディレクターである岡戸さんの手によるものです。

M: 岩田さんにとっての、岡戸ディレクターとは。

I: んー、一言では言い表わせられないです。マハラジャへの熱い思いは全く同じですが、冷静さと人脈の広さには、かないません。あと常々思うのは、私をノセるのが上手いというか、潜在能力を引き出してくれるという事です。都内在住で幅広い人脈を持っているので「マハラジャ・ウェブサイトの代表」は岡戸さんが適任だと主張したのですが、受諾されませんでした。後から考えてみると、私の力を120%引き出す為の作戦だったのではと思っています。

M: では次に「マハラジャ復活」について、お話ください。

I: 故・菅野諒代表が「マハラジャ復活」を初めて口にされたのは、'02年8月です。詳しくは言えませんが「いつか『マハラジャ』を復活させる時に・・・(省略)・・・しなさい」と、ご自宅に訪問した時におっしゃられたのを覚えています。
 マハラジャ・ウェブサイトは(立ち上げ当初から)オンラインだけでなくオフラインでも活動しており、ノヴァ21グループ本部より「マハラジャ」の名称管理も任されておりました。その関係で名古屋の「Jマックス」さんを始め、各地で「マハラジャ・ナイト」が開催され、大好評を博していました。更に'02年下半期から「80's ブーム」と共に、ディスコが見直されはじめ、私共の掲示板にも「マハラジャ復活」を求める書き込みが増えて徐々に気運が高まってきました。
 年が明け'03年1月3日、菅野代表に新年のご挨拶を差し上げた時「引き続き、マハラジャ復活の為の準備を進めなさい」とのご指示を受け、私自身「今年中に、マハラジャが復活するのでは・・・」と思う程でした。水面下で進めていたプロジェクトですが、一週間後の11日、菅野代表自らの掲示板への書き込みによって公表されました。そして私共は菅野代表より「2月9日に私の自宅で会議をするから、プレゼン用資料を作成しなさい」との勅命をお受けしました。

M: 「プレゼン用資料」とはどういったものですか。

I: 「マハラジャ復活プロジェクト」を具体化する為の「たたき台」です。内容は勿論、極秘ですが「マーケティング・リサーチの報告」「独自の企画提案」を2つを柱にし、「数字の予測」「人件費計画」なども作成しました。余談ですが、個人的にエクセル(表計算ソフト)は苦手だったのですが、この時のお陰で少しは使える様になりました。「マーケティング・リサーチ」に関しては、(後に「ディスコ・タイムマシン」の代表になられた)野田氏に大変お世話になりました。

M: そして万全の体制で、会議に臨んだと・・・

I: 出席者は(ノヴァ21グループから)菅野諒代表、(後に「新マハラジャ」社長に就任された)若林氏、○○社長、○○社長といった顔ぶれで「オーナー会議」さながらでした。マハラジャ・ウェブサイトからは、私、岡戸ディレクター、小坂谷(DJ JANNY)、大竹(DJ take)と、我々の良き理解者であり協力者である若村さん(番長)が出席し、出資をご検討頂ける様にプレゼンテーション(企画提案)しました。後に出資をご決断頂いたオーナーとは、この時初めてお会いしました。オペレーション(運営・経営、またその会社・責任者)の事を、しきりに気にされていたのをよく覚えています。

M: そして「マハラジャ復活」が決定したと・・・

I: いや、すぐには決まりませんでした。その後は、ノヴァ21グループ本部に話を詰めて頂きました。また、オーナーが信頼を寄せていた加藤氏(後に「新マハラジャ」プロデューサー)が、オーナーに進言されたのも「マハラジャ復活」への大きな力となったと思います。
 そしてその翌月(3月)に「マハラジャ復活」が正式に決まりました。「夢が叶う」とはこういう事を言うのかと思った程、うれしかったです。

M:

I:  こ

M:

I:  ま

M:

I:  。

M: これからの「マハラジャ・ウェブサイト」の活動や、将来の展望について、お話ください。

I: 従来通り「『マハラジャ』の検証と研究の発表」「一般への啓蒙活動」「『マハラジャ』の名称管理」「『マハラジャ東京』への支援」を、オン・オフ両方で行なっていきます。それとこの年末年始にかけて、3周年記念としてコンテンツを増強します。
 個人的には「代表」といった地位に固執していませんので、私や岡戸ディレクター以上に「マハラジャ」を愛し、総合能力を兼ね備えた方が居られれば、「マハラジャ・ウェブサイト」を取り仕切って頂きたいと思っています。
 順調に発展し資金があれば、サイト内に「マハラジャ」をオープンしたいです。毎日、日替わりで内装が変わる「バーチャルのマハラジャ」では、訪れた方にアバターで踊りを楽しんでもらったり、パフォーマンスや自作の音楽を発表してもらいたいです。他にもアイデアはたくさんあるので、これをご覧のIT企業様、「マハラジャ・ウェブサイト」を買ってください。(笑)
 あと、話は変わりますが・・・「マハラジャ」というのは、日本全国に熱狂的なファンの方が沢山おられます。私はよくそれを「宗教」に例えるのですが・・・さしずめ、故・菅野代表は教祖、私達は信者で「マハラジャ・ウェブサイト」で布教活動・・・みたいな。ですから、皆さん独自の解釈をもって「第二・第三の、マハラジャ・ウェブサイト」が現れればと思います。(名称使用の問題もありますが)実際、札幌「パシャ・ナイト」さん、九州「マハラジャ・ナイト」さんも精力的に活動されておられます。

M: では最後に、これからの「マハラジャ」について、お話ください。

I: はい。これからと言うより、現在の「マハラジャ」は、もっと「ディスコ」といったカテゴリーから抜け出さないといけません。
 私は常々「『クラブ』も『ディスコ』も同じ。時代によって、業務形態は変わるし進化し続ける」というのと「『マハラジャ』は、ただの『ディスコ』や『クラブ』ではない。また別のカテゴリーだ」を持論として展開しています。これは「マハラジャ」が単に、飲食し踊るだけの場所ではないからです。ディスコ以外に、ライブハウス・レストラン・バー・ホストクラブ・ショーパブ・社交場・ギャラリー・・・など様々な要素があり、(ディスコ・ミュージックだけではない)多くの新しい文化を提案・発信できる空間だと考えます。勿論、20年以上培ってきた「マハラジャのホスピタリティ」は絶対に必要不可欠ですし、いつの時代にも「マハラジャ」は、年代・性別・民族の違いを越えて多くの方に愛される店にしなければいけません。
 そういう訳で(従来の)'80年代や'90年代のマハラジャのお客様や、現在のクラバーのお客さんを対象としたコンテンツや営業戦略は古いというのが、私の意見です。

M: 具体的なコンテンツは?

I: それは、秘密です。私はプロですから・・・ただヒントとして「サブ・カルチャー」「潜在需要」の2つのキーワードだけ、挙げておきます。

M: んー、奥が深そうですね。
 岩田さん、長時間にわたってのお話ありがとうございました。聞き手は私、岩田靖史がおおくりしました・・・っておいっ!

I: 最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

('04年11月 マハラジャ・ウェブサイト京都にて)

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