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MAHARAJA YOKOHAMA
CHIEF DJ

DJ BOSS

DJ BOSS

横 田 聡

1968年(昭和43年)生まれ 神奈川県出身 A型

 有限会社エヌ・ワイ・ジイ・コーポレーション入社。
 チーフDJとして「横濱マハラジャ」に勤務しつつ、数々の楽曲のリミックスを発表する。
 現在は有限会社横田商会代表取締役社長として有線C25ch・BAY FM「Dance Wire」やCD制作を手掛ける傍ら「マハラジャ東京」「ヴェルファーレ」「ジ・オービエント」でも活躍中。

独占インタビュー

マハラジャ・ウェブサイト(以下Mと省略): 本日は、お忙しいところ、お時間を頂きましてありがとうございます。マハラジャ・ウェブサイトでは今回「横濱マハラジャ」のチーフDJでしたBOSSさんの特集を組むことにしました。どうぞ宜しくお願いします。

横田聡氏(以下Bと省略): こちらこそ宜しくお願いします。

M: 早速ですが、どのようなきっかけでディスコと出会ったのですか?

B: 高校生の時、文化祭の打ち上げでカラオケに行った後、ディスコが大好きな仲間の1人から「今からディスコに行こうぜ!」と誘われたのです。俺は元々ディスコには興味がなかったので凄く嫌だったが、皆は「行く!」って言うので仕方なくついて行った。それが「シュガー・ストッキング(SUGAR STOCKING)」でした。

M: シュガー・ストッキングはどんなお店でしたか?

B: 伊勢崎町にあったデカ箱で、後に俺が働く「オクスン・トラップ(OXUM TRAP)」の前身でした。そのディスコには、ダサいトレーナーに当時流行っていたケミカルウォッシュのジーパンを穿いて行きましたよ。(笑)

M: そんなディスコ初体験の感想は?

B: まず沢山の人が楽しそうに踊っているその空間に驚きました。それと当時「ベストヒットUSA」が流行っていたせいか、ディスコのDJも「しゃべり」がメインになっており「今週の第10位は!」って、ベスト10みたいな事をやって盛り上がっていた。俺はそのスタイルにカルチャーショックを受けましたね。ちなみに今でも覚えているけど、第1位はRAY PARKER Jr.の「GHOSTBUSTERS」でした。それで「はっ」と気付いた時には狂ったように踊っていた自分がいました。それからディスコにハマって、当時流行っていた「ペイズリー柄」のジャケットやズボンを持参し、1階のゲーセンのトイレで着替えて毎週のように通いましたね。

M: どういった経緯でDJに興味を持つようになったのですか?

B: 最初の頃はバンプとか、純粋に踊るのが好きなだけでした。しかしその内に「こういう楽しい空間を演出している連中は、どんな人だろう?」と疑問に思い、踊り目的とは違う視点でディスコに興味を持ち始めた。それでホールやカウンタースタッフの動きを観察したけど、やっぱ1番気になったのが「音」だったのです。そして今度はDJブースの前で暫くプレイを見ていると、ピッチコントローラーの付いたターンテーブル2台を使って曲と曲を違和感なくつないでいる。そのDJプレイに釘付けになり凄く興味を持ち始めました。

M: それでDJになろうと・・・

B: そう。自分でディスコみたいにノン・ストップの曲を作りたくなり、それで機材を揃えようと思ったら当時はターンテーブルが1台10万円以上もしたので、高校生の俺にはとても手が出せなかった。それでも諦められず、なんとかピッチが±2ほど動かせる安いターンテーブルを1台探しだし、カセットデッキ1台と合わせて使う事にしたのです。

M: 当時、手に入りづらかった12インチ・シングルのレコードの入手方法は?

B: 今みたいに輸入盤のレコード屋が沢山あったわけではなく、ダンスミュージックの12インチ・レコードを手に入れるのは簡単ではなかった。そこで既に品揃えで評判だったエイベックスの前身であるレンタルレコード店の「友&愛・上岡店」で、12インチ・レコードを毎日のように借りまくった。そして必要な音源をまずカセットに録音して、ターンテーブルとカセットデッキの一時停止機能を駆使して「ノン・ストップ・テープ」を作りました。でもいくらやってもディスコで聞くつなぎの音にはならない。やっぱりターンテーブルは2台使用しないと無理なのかと悟りましたね。

M: なるほど。その後ディスコで働くようになったきっかけをお聞かせください。

B: 高校を卒業し大学に入って新しくできた友達が、たまたま厚木のライブハウス兼ディスコの「ケイオス(CHAOS)」でウエイターのアルバイトをしていたのです。そこでその友達に「DJに興味がある」と言ったら「チーフDJに話をしてやるからお前も一緒に働こうぜ」と誘われ、それでDJの見習いとしてケイオスに入りました。

M: 最初からDJの志望だったのですね。

B: そう。でもDJの世界は実際に見るのとやるのとでは大違いでしたね。しかも体育会系の厳しい縦社会で、チーフDJは何も教えてくれなかった。「仕事や技は見て盗め!」ってまさに職人の世界でした。けど幸いなことに俺は以前から洋楽が好きで、「ベストヒットUSA」や「ビルボード」等をチェックしていたから曲の知識はありましたよ。あとは人前でプレイする度胸をつけるだけだったので、見習い期間は異例の早さの約1ヵ月で上がれました。

M: そして初めてプレイしたのは?

B: ちょうどユーロビートのブームが落ち着いて、代わりにニュー・ジャック・スィング系の人気が出始めた頃でした。俺は既に曲をよく知っていたので、誰にも聞かずに選曲帳を書いていると、それをチーフDJが見て「お前そんなに曲を知っているなら直接やってみろよ!」と、ターンテーブルの前に立たされたのです。いきなりだったのでビビリましたよ。何故ならこのお店の場所は米軍基地が近く、踊っているのは曲をよく知っている黒人のお客さんばっかりでしたからね。あの時は今でもよく覚えているけど緊張して手が震えました。

M: それを乗り切ったと・・・

B: 30分だけでしたが、なんとか乗り切れました。でもつなぐのに精一杯で「しゃべり」どころか、お客さんの顔を見る余裕もなかった。終わってみたら灰のようになっていましたよ。(笑)でも同時に自分のプレイで、お客さんが踊ってくれた喜びを初めて味わいましたね。本当に緊張したけれど楽しかった。そしてその後は、慣れてくるとプレイ時間が30分から1時間になりと回す時間が増えていったわけです。しかし暫くしてお店の経営方針が変わってブラックミュージック専門の箱となり、それでオールジャンルでプレイしたかった俺は「なんか違うよなー」と思いそのお店を退店したのです。

M: 次に行かれたお店は?

B: 俺にはいつか自分が遊んでいたディスコで働きたいという夢がありました。でも遊んでいたシュガー・ストッキングは既に閉店し店名がオクスン・トラップに変わっていました。そこでそのお店にアポなしで行ったのですが、DJによる絶妙な「しゃべり」を聞いた瞬間に俺は再びカルチャーショックを受けましたね。それまで俺は曲も熟知しているしプレイの技量もありDJについては自信があったが、その上手な「しゃべり」を聞いた瞬間に自信が砕け散った。それでそのDJに弟子入りしようと決め「是非、働かしてください!」と飛び込みで言ってみると、運良く話しを聞いてくれて「オクスン・トラップはDJの枠がいっぱいだから関内のレム・スピリッツ(REM SPIRITS)に3ヵ月間行ってくれ。その後はこの店に来て良いから」と言われたのです。そのDJが、後にFM-FUJIやclub「beat freak」というラジオ番組を担当する事になった、DJ Dこと塚田さんでした。

M: それでレム・スピリッツでは無事3ヵ月間を過ごせたのですか?

B: はい。レム・スピリッツはヒップホップ専門のクラブでしたが、既に先のケイオスでもヒップホップをよくプレイしていたので問題なく3ヵ月間が過ぎました。その間に塚田さんがちょくちょく見に来ていましたが、今思うとDJのテスト期間だった気がしますね。

M: そして念願のオクスン・トラップに入るわけですが、どんな選曲のお店でしたか?

B: オクスン・トラップはユーロビート、ロック、ハウス、ブラック等のオールジャンルの選曲スタイルで、俺も既にその選曲には対応できていたね。ただ自分ではオールディーズ系が弱かったので、このお店で勉強し約1年半在籍しました。

M: そしてどのようなきっかけでマハラジャと出会うのですか?

B: はい。横浜ではオクスン・トラップが老舗で、そこへ「横濱マハラジャ」と「横濱マハラジャウェスト」が同時オープンしたのです。マハラジャは横浜では新参者でしたが既に東京で人気爆発のお店でしたので、鳴り物入りでオープンしオクスン・トラップのお客さんがマハラジャに取られましてね。お互い対立するようになってしまったのです。当時はDCブランドが流行っており伊勢崎町通りの丸井の前が、一番人通りが多くその場所で従業員がお店のディスカウント・チケットやインビを配るのですが、そこへ肩パット入りの制服を着たマハラジャの従業員もディスカウント・チケットを配りに現れるのです。もうお互い目がバチバチで一触即発の緊張感がありましたね。まさに「キューバ危機」ならぬ「伊勢崎町危機」でした。

M: そんなライバル店であるマハラジャにどうして移られたのですか?

B: たまたま別件で知り合った人が横濱マハラジャウェストのDJで「お互い横浜のDJ同士で頑張ろうな!」と励ましあっていた仲だったのですが、ある日その彼から「横濱マハラジャでDJが1名欠員になるからこっちに来ないか?」と誘われ迷い始めたわけです。しかし今のお店を裏切る事になるし、マハラジャはライバル店だから簡単に移れるわけではなかった。それで悩みに悩んで塚田さんに正直に相談したのです。そしたら「それはお前が自分で決める事だし、お店のしがらみは気にする必要はないよ。それにマハラジャはこれから伸びるディスコだから良いじゃないの」と言ってくれて、そして初めて横濱マハラジャへ視察に行ったのです。

M: マハラジャを初めて体感した感想は?

B: まず集客力に驚いた。オクスン・トラップでは週末で約300人位入っているのに対し、マハラジャでは月曜日なのに約800人位入っていましたからね。さらに内装はキンキラ金の超豪華で従業員の接客は凄く丁寧だし、なによりDJのスタイルには度肝を抜かれましたよ。

M: なるほど、詳しくお聞かせください。

B: はい。オクスン・トラップのDJブースはお客さんから見えにくい奥にあり、DJは職人的要素が強かった。ところがマハラジャのDJブースはお客さんの目線にあるオープンスペースで、サイレンは鳴るし曲を1番で替えるしDJも制服着て声を出して踊っており、DJ中心で盛り上げているのです。「何だ、このお店は!」と本当に驚きましたよ。また自分ではオクスン・トラップにて塚田さんの「しゃべり」をマスターしたつもりだったが、マハラジャのDJによる「しゃべり」を聞いた瞬間に「まだ勉強不足だ」と三度カルチャーショックを受けました。そして「マハラジャで働きたいなー!」と欲望が湧いてきたのです。

M: それでオクスン・トラップはスムーズに辞められたのですか?

B: 暫く経って塚田さんに「マハラジャで働きたいので辞めさせてください」と言ったら「俺は良いけど、マネージャーに話しを通してくれ。但し、殴られるかもよ・・・」と脅されビクビクしながらマネジャーに正直に話した。それでひたすら謝って「マハラジャに行っても絶対途中で辞めないし、いつか自分で名を売ってオクスン・トラップに居たと胸を張って言えるように頑張る」と言い結果的には殴られないで辞められました。

M: マハラジャには、すぐに入れたのですか?

B: 横濱マハラジャと横濱マハラジャウェストのDJを統括していた松岡さんに面接をしてもらったのですが、俺は知り合いのDJが勤務していたマハラジャウェストに配属希望をした。ところがマハラジャウェストではDJの空きがなく、代わりにIPPEIさんがマハラジャを辞めて「ロンドクラブ」に移る為、DJの枠が1人空いたマハラジャに配属となったのです。当時マハラジャのDJ陣は、松岡さん山本さん奥村さんIPPEIさん小島さんがおり、今のクラブシーンでは考えられないDJが5人体制でしたよ。

M: マハラジャとマハラジャウェストでは、すみわけしていたのですか?

B: そう。知っての通り6・7階にマハラジャ、B1にマハラジャウェストがあり同じビルに2店舗のマハラジャがあったからバブリーな時代でしたね。マハラジャは大人の選曲に対しマハラジャウェストはミーハーのユーロビート箱で、週末でもあの狭さで約400人位は入って盛り上がっていましたよ。でもマハラジャとマハラジャウェストでは役職以外は互いのローテーション勤務はなく、最初は両店の区別を知らなかったが、結果的にはマハラジャウェストよりマハラジャに配属されて良かったと思います。

M: そしてマハラジャでは、直ぐにプレイできたのですか?

B: 全然できませんね。(笑)また1からDJ見習いですよ。

M: マハラジャでのDJ見習いとは?

B: まず出勤しタイムカードを押してソッコーで賄いを食べる。その後に点呼を取ってDJブース裏の位置に付く。DJブースの中には1歩も入れないですね。マハラジャは18時オープンで約10分間スローを入れるのですが、その後はDJブース裏で声を出しながら手拍子&2ステップです。今では考えられませんが、当時18時半にはお客さんがけっこう来ましたからね。それで閉店まで声を出しながら手拍子&2ステップです。

M: ずっと声を出しながら手拍子&2ステップですか?

B: ずっと声を出しながら手拍子&2ステップです。

M: ・・・

B: それを3ヶ月間やりましたね。しかも上司のDJ達は肩パット入りの格好良いジャンプスーツの制服を着ているのに対して、俺ら見習いはマオカラーの格好悪い制服を着て声を出しながら手拍子&2ステップですよ。

M: 他店でDJ経験があるBOSSさんがそこまでして続けられた理由とは?

B: 確かにDJ経験がある俺は即戦力のはずなのに「何でこんな事をやらなきゃいけないのか?」と思いましたよ。それでも続けられた理由は、マハラジャには凄く可愛いコがいっぱい居てDJはモテモテだったからです。(笑)営業中に女性のお客さんがDJブースのお目当てのDJに貢物として、カルティエやヴィトン等のブランド品を入れ替わり立ち代り持って来るのです。それはDJが職人的存在のオクスン・トラップではありえない光景でした。それに新入りのDJはけっこう常連の娘に目を付けられるのです。それを目の当たりにした俺は「声を出しながら手拍子&2ステップでも良いからもう少し頑張ろう!」と決めたのです。今まで硬派で職人的なDJだった俺はマハラジャの雰囲気で軟派になっちゃいました。(笑)

M: なるほど・・・それで見習い期間はまだ続くのですか?

B: 全然まだまだです。実は後で分かった事ですが、DJブース裏で3ヶ月間も声を出しながら手拍子&2ステップをさせられたのは、それなりの理由があった。それはお店の雰囲気を早く掴むのと、お客さんに名前を覚えてもらう為だったのです。そしてようやくDJブースの入口にまたいで体の半分だけ入れるようになり、お立ち台に寄り掛かりながら今度は照明操作を見ながら各照明のスイッチボタンの位置やパターンを覚える事になったのです。

M: DJにとって照明操作は大事なのですか?

B: そう。マハラジャでは曲を覚える事や上手につなげる前に照明操作の方が大事でした。よく上司から「照明のパターンを見ればお前のDJセンスが分かる」と言われていたので、自分で照明卓のパネル図面を書いて操作方法を覚えましたね。さらに営業終了後には誰もいないダンスフロアで数ヵ月間練習しました。横濱マハラジャの照明卓は今みたいにフルオート式ではなかったので、もう千手観音のような手さばきで動かしました。そして目を閉じても操作できるようにまでなり、その様子を上司が見て「よし照明をやってみろ!」と言われ初めて営業中に照明を操作しました。でもタイミングを外すと横から蹴りが飛んで来るので厳しかったですよ。

M: それでDJプレイはいつからできるようになったのですか?

B: マハラジャに入って約1年位経って、初めて店長とかマネージャーの見ている前でオーディションをやったのです。普通は面接時にやるのですが、何故その頃だったのかは今でも分かりませんね。それでマハラジャの場合は、つないでしゃべるのが基本だったので無我夢中でプレイしました。そしたら「回すのは問題ないが、しゃべりはイマイチだからお前はしゃべらなくっていい」と言われて、やっと人前でプレイできるようになりました。

M: マハラジャでは「盛り上げタイム」がパターン化されていたのですか?

B: 当時のDJローテーションは1時間で区切り、1時間に1回は必ず「盛り上げタイム」があった。流れを例えると21時から21時15分までがブラックで、その後21時30分までがハウスをかけ、21時45分までにイタロ・ハウスからPWLに上がっていき、最後のラスト15分で一気にユーロビートで盛り上げるのです。その4分割パターンの内、俺は最初の30分が担当だった。しかしただブラックからハウスをかけるだけではなく、ダンスフロアでのお客さんの占有率を30%から50%に上げて、次のDJにバトンタッチしなくてはならなかった。だからダンスフロアにお客さんが踊りに来ないと、横から蹴りが飛んで来るのでドキドキもんでしたね。

M: 「しゃべり」はどのようにして覚えたのですか?

B: はい。マハラジャでは必ず途中にスロータイムがありDJが「クリスマスパーティのお知らせ」とか「成田勝社長のCD発売中です」等、インフォメーションとして紹介していました。そのパターンはA4のノートにぎっしり書いてあり、それを覚えてスロータイムに自分で紹介し「しゃべり」の練習としたのです。

M: そしてどのようにしてチーフDJになったのですか?

B: 最初の1〜2年は1番下で、そのうち辞めていく人もありますが、年功序列のように自然に上に行ける訳ではなかったです。

M: DJとして実力も必要だったのですね。

B: そう。実力主義の世界でした。あとパー券のノルマも評価されましたね。

M: DJもパー券のノルマがあったのですか?

B: 全然ありましたね。最初は10枚とかでしたが、2年目より20枚から30枚へと増えていくわけです。さらにDJでも朝チラや外販にも行きましたよ。つまり、DJでもいかにお客さんを掴んでいるかが大事なのです。それらマハラジャに入ってDJの技術や曲を覚える以外の部分で大事な事を学びました。それで約4年目位に上から2番目のポジションに付く事ができましたが、さらに上への欲望があり実力でチーフDJの地位を取りましたよ。また途中でマハラジャウェストが閉まりカラオケの「2001年」になったのですが、マハラジャウェストのDJがそのまま移り一時期マハラジャにはDJが8人体制になって、1人30分しかプレイできない日々がありましたね。

M: 他にマハラジャで身についた事はありますか?

B: 照明を直せるようになりましたね。マハラジャでは「プロメディア」が照明を管理していたのですが、その会社が倒産したので、代わりに俺がメンテナンスをやる事になりました。ある日「Dライト」が動かなくなり分解すると、鏡の「X軸」と「Y軸」のモーターが故障しており、その特殊なモーターを秋葉原で探し回りました。結果的には身近で使用されていた某モーターと同じ物だと発見し修理しました。その噂を嗅ぎ付け「青山キング&クイーン」からも修理依頼が来て直しに行きましたよ。その時の青山キング&クイーンのチーフDJが、現在もリミックスチーム「B4 ZA BEAT」で活躍中の「DJ SHU」こと市川さんでした。

M: BOSSさん自身のエピソードは何かありますか?

B: 今だから言えるけど実は、「日比谷ラジオシティ」に引き抜きの話しがあったのです。ゲストDJとして1度だけ日比谷ラジオシティでプレイしたのですが、そのお店の関口さんに気に入られ「是非うちに来てくれ」と誘われた。ラジオシティはロケーションも良いし客層もOLやサラリーマンが多く、なによりあのでかい照明を操作したかった。それで自分の中ではラジオシティに移ると決めたのですが、横濱マハラジャの大川部長に言わなければならない。そこで大川部長の機嫌を見ながら言うタイミングを見計らって、苗場で行われた「Mカルロ」のイベントの帰りに正直に話したのです。そしたらいつもは怒る事しかない大川部長が「話しは既に関口君から聞いている。今のマハラジャにとってお前は大事なんだよ」と初めて自分が必要とされたその言葉に感動して、ラジオシティには断りました。その後ラジオシティは約2ヵ月でクローズしたから、今思えばマハラジャに残って正解でしたね。

M: 続いて横田商会を立ち上げたきっかけをお聞かせください。

B: はい。当時「I.S.D.」「M.S.T.」「T.Y.M.」等のリミックスチームが活躍しており、マハラジャにも諸先輩方がリミックスしたプロモ盤のレコードが届き、それらを回しながら「俺もこんな格好良いリミックスを作りたいな」と思っていた。しかし俺は知識が無いので作り方がまったく分からなかった。そんな時、現在も一緒にやっている「DJ REMO-CON」こと田村君が、マハラジャにDJ志望で面接に来たのでした。しかし面接では採用になったが、大川部長に「既にDJの枠は無いし、お前は見た目が悪いのでDJは駄目だ」と言われバーカウンターでシェイカーを振る事になったのです。

M: マハラジャのDJはビジュアル面も大事なのですか?

B: そう。黒服やウエイター同様にDJも容姿端麗でなければならない。まぁ俺はその点は問題無かったけどね。(笑)それで休憩時にバーカウンター裏で田村君から「音楽学校を卒業したので本当はDJになりたかった」と言われ、そこで俺の持っているDJの経験や人脈と、彼が持っている音楽の知識を合わせれば何か出来ると思い。2人でリミックスを手がける事にしたのです。

M: そして横田商会と名付けたのですね。

B: いやいや、ネーミングやロゴなんかどうでもよかった。格好より実績を出して良い作品を残すのが大事。まずやる事やって先に結果を出そうと言う事になり、それで知り合いから8トラックのオープンリールを3万円で譲って貰いまして、その他の機材も自分達で寄せ集めました。それで最初は田村君の家でオープンリールを切り貼りして、オール・イン・ワンのシーケンサーを使いフレーズを作りリミックス作品を作った。でもお金が無くステレオのサンプラーが買えなかったので一部はモノラルでした。その頃の作品は今聞くと笑いますが、当時は2人で「これ、いいよー!格好いいよー!」とやっていましたね。

M: 初めてレコード・プレスされた作品は?

B: 忘れもしない'93年です。自分達のリミックスの5作品目になるL.A. STYLEの「BALLOONY」をDATでマハラジャでかけていた。そこにたまたまVIPルームに居たエイベックスの松浦専務が聞いて「何これ?いいじゃん!明日DATを会社に送ってよ。レコードにするから」と言ってくれて、それが初めてレコードになったのです。

M: 自分達がリミックスした作品がレコードになった時の感想は?

B: それは言葉では表せない喜びですよ。正直嬉しくって泣きそうになりました・・・いや実は泣きました。それまでマハラジャではDATでかけていたから違和感が無かったが、横浜の「クラブ・ヘヴン」に行った時にDJが僕らのリミックスした「BALLOONY」をかけたのです。初めて他店にて自分達の作品を聴き、その曲で盛り上がった約400人位のお客さんの踊る姿を見たら感動して泣きましたよ。その時の感動は今でも忘れていない。

M: そしてどのようにして横田商会の名が付いたのですか?

B: 「BALLOONY」のレコードを持っている人はわかると思うが、センターレーベルには「REMIX」とクレジットしてあるだけでリミックス名が入っていない。先に述べたように名前に対する拘りなんて一切なかったが、更にリミックスの勉強をする為にマハラジャの営業終了後にT.Y.M.のマニピュレーターのBUNTAさんと元横濱マハラジャの山本さんがいる青山にあった「プライム・ディレクション」のスタジオへ毎日通った。それでいつものように朝まで残り3人で朝飯を食べる事になり青山通りを歩きながら山本さんが「松浦専務に認められて作品になっているならリミックス名を考えた方がいいよ」と言い、近くにあった○○商会の看板を見て「横田商会がいいよ!」って名付けてくれたのです。俺は「エェ?」って嫌な顔をしましたよ。だって他はI.S.D.とかT.Y.M.とか英字表記じゃないですか、でも山本さんは「だから逆に『横田商会』の方が良い」と言うわけです。それでその時は別になんとも思っていなかったが、ある日レコード会社のディレクターから「これから作品を残す為にもネーミングがないと駄目」と言われ、とっさに「『横田商会』でお願いします」と何も考えずに答えて決まってしまったのです。

M: もし青山通りの看板が、○○商事だったら?

B: きっと横田商事になっていましたね。(笑)ちなみにレコードになった2作目であるLOU GRANTの「TAKE ME HIGH ALL DAYS」の時も横田商会と決まっていなく、レコードにクレジットしてある「DR4 REMIX」のリミックス名は当時使用していた機材名から取ったのです。

M: あの頃は他にもリミックスチームが誕生しましたね。

B: 確かに同じように「MIDI-WAVE」や「B4 ZA BEAT」等のリミックスチームも生まれたが、当時はお店でのDJとは別にリミックスチームの顔を持っているかで、DJの価値を問いていたところもあったと思います。

M: それからマハラジャの勤務と横田商会の活動は両立できたのですか?

B: 勿論です。今まで通りにマハラジャで勤務し朝チラや外販もこなし、それから正午まで田村君とリミックスを作り、仮眠して16時からマハラジャに出勤する生活でしたね。

M: 凄くハードな生活だと思いますが?

B: でも好きな事をやっていたので楽しかったですよ。マハラジャの勤務が休みの時は1日中、田村君と機材を触っていましたからね。でもチーフDJになってからは、お店のイベントやハウスパーティー等の企画や宣伝などは全て自分でやるようになった。当時はパソコンがなかったのでチラシやフライヤー等は切り貼りしコピーして作りましたよ。

M: そのような事もDJの仕事なのですか?

B: それらの業務は全て自分から進んでやりましたね。何故ならマハラジャとは別に横田商会の活動をする事は、お店から見れば許されない事なのです。横田商会の活動の為にマハラジャの仕事をおろそかにはできないので、なおさらお店の事は一生懸命にやりました。

M: 有線はどのようにして携わるようになったのですか?

B: 有線の「マハラジャ」チャンネルは「麻布十番マハラジャ」からライブで流していた。ところが'97年8月3日に麻布十番マハラジャがクローズになる事が決まり、有線の担当者に呼ばれ横濱マハラジャで引き継ぐ事になったのです。

M: その後BOSSさんは横濱マハラジャのラストまでチーフDJとして勤務されるわけですが、最後にBOSSさんにとってマハラジャとは?

B: まず俺の代で横濱マハラジャが閉まったのには非常に責任を感じていますが、マハラジャで働けたのを誇りに思っています。マハラジャについては言葉で表せるほど軽い物ではないが、自分の中ではいくつになっても生き続けるでしょう。

M: 本日はお忙しいところ貴重なお話しとお時間を頂きましてありがとうございました。

B: こちらこそありがとうございました。

('03年2月9日 横田商会事務所にて)

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